ああ(ああ)

これからもエロ映画というものは存続していくのだろうか?あまりにもビデオレンタルが普及してしまい、その存在価値がすっかり薄れてしまったようで寂しい。どう見ても中学生にしか見えない中学生が、必死に年齢を偽って映画館の窓口で切符を買うことが、正しい「性の目覚め」である。そこでその中学生は、西洋の女が「ああ.....いや」ではなく「ほぅ.....かもん」と身悶えることを学ぶ。

あい(愛)

確か遠藤周作氏の作品だったと思う。とある村で、一人の男が病気になって寝たきりになる。その病気を治す術は無く、しかも伝染性のものであったから、周りの人々は彼を遠ざけ、山の中腹にある人の近づかない小屋の中に彼を隔離した。人々は日に何度かその小屋のそばに食べ物を置いては逃げるように帰ってしまう。やがて時が経ち男の病状が進み、もはや時間の問題となった時、その村にイエスが現れる。ここでイエスが彼を救うのなら美しい奇跡の物語になるのであるが、そうではない。ここに現れるイエスは全くの無力なのである。水を葡萄酒に変えることも人々の苦痛を取り去ることもできない、ただの人としてイエスはやって来る。イエスは人々の話を聞き、病の男が寝ている小屋に向かう。小屋の中にはもう食べ物を口にすることも出来ず、苦痛に息を乱す男が寝ていた。イエスは彼の死期が近いことを悟る。イエスは彼の枕元に座り、手を握ってこう言うのだ。「私にはあなたの命を救うことが出来ない。あなたの苦痛を和らげることも出来ない。ただ、私はここに居る。あなたは一人ではない」

あいうぉんとゆー(I Want You)

ビートルズのアルバム『ABBEY ROAD』に収められたジョン・レノンの曲。私はこの曲がたいへん好きである。『LET IT BE』に収められた「Across The Universe」と同様に、彼の声の魅力が最大限に発揮されていて、何時間でも読経のように聴いていたいと思う。以前何かのTV番組が人間の声に含まれている『α波』について調査をして、彼の声を「α波を多く含んでいる声」のサンプルとして聴かせていたが、その声が持つ人を惹きつける魅力についての説明には不十分だった。彼は死んで「伝説」となり神格化された感もあるけれど、もっと単純に、歌い手としての彼の魅力がクローズアップされても良いのではないかと思う。

あいぽっどしゃっふる(iPod shuffle)

自分の好きな曲だけをランダムに流してくれるラジオの事。

そう考えると、楽しい。長い間ずっとiPod(第3世代)を使っていたが、充電池の劣化が進み、フル充電しても約2時間程度の使用で限界がくるようになってしまった。おそらく充電池の交換には数千円が必要になるはずなので、それならばと「使い捨ての充電池」としてshuffleを購入。

今までシャッフル機能は使った事がなく、「聴きたい曲を聴きたい時に聴けない」のはどうかなぁ...と思っていたが、いざシャッフルさせてみるとこれが楽しい。「次、何が来るかな」とワクワクし、見事にハマった時の気持ち良さ、逆に「ここでコレが来るのかよっ」とハズした時の面白さ。

買ったのは新製品で売られている「あなたに話しかける」タイプではなく、その一つ前のモデル。最新タイプは本体に操作部が無く(イヤフォンケーブルにコントローラー付き)、イヤフォンを選べないので問題外。同じような理由で購入を躊躇っている人は多いはずだ。Appleはどうするつもりなのだろう。そういう人はiPodの上位機種を買えという戦略か。「話しかけてくる」と言っても、悩殺ヴォイス(笑)の秀島史香(注:音出ます)がDJしてくれるわけでもなし、「モヤモヤさまぁ〜ず2」のコンピュータヴォイスと一緒で、コミカルさはあっても音楽に馴染むものでは無い。

あおいゆう(蒼井優)

蒼井優は評価が難しい女優だと思う。逆に言えば、簡単に評価出来ない「凄さ」みたいなものを感じる。心の奥底に、何かどろどろした情念のようなものを持っていそうな気もするし、いや、実はこの子はアッケラカンと何も考えてないんじゃないかと思わせる時もある。特別演技が上手だとは思わないが、見る者の視線を引き留めておく「何か」を持っている。

彼女の演技には、いつも不純物が混じっているように見える。それは、少女を演じている彼女から漂う「おんな」の匂いだったり、その逆だったり。にっこり笑っている目の奥に悲しみや怒りが見えたり、その逆だったり。それが全て「演技」なのか、隠せない彼女の本性なのかは分からない。分からないところが、そのもどかしさがまた彼女の魅力であり、凄さなのである。世のオジサン達はもうメロメロである(笑)。

彼女自身が以前、「周りの女優さんをみると、みんなすごくそれぞれに個性が強くて...私には個性が無いなぁって思って...でもそれが私の持ち味なのかなって思い始めて...」と答えていたのを思い出す。確かに「どんな人?」と考えて、すぐに答えが出せるような個性を彼女は持っていない。だがフィルムの中で動く彼女は、違う。「ゆらぎ」のような柔らかい空気を作り出すかと思えば、強く射貫くような視線を投げ、屈託の無い笑顔で空を見ていたかと思えば、全てを知り尽くしているかのような不敵な表情も見せる。

映画監督から見れば、これほど魅力的な「素材」は他に無いのではないか。そして映画を観る私たちも、この「不思議な女の子」が次に何を見せてくれるのかをつい期待してしまう。圧倒的な存在感を持っているわけでは無いのに、彼女はいつも「気になる」人なのである。

あかせがわげんぺい(赤瀬川源平)

尊敬する人物の一人。芸術と日常の境界線、紙一重、剃刀一枚の境界線の上を、絶妙なバランス感覚を持って歩く人。"超芸術トマソン" "路上観察" "脳内リゾート"等、彼の造語は常に斬新で心に響く。尾辻克彦の名前で優れた小説も数多く残している。事物の持っている雰囲気、空気感、磁力といった、言葉では説明の出来ないものを巧みに表現する達人。

あくだま(悪玉)

手元の辞書には「江戸時代の絵草子などで、「悪」の字をまるい形の中に書いて悪人の顔をしたことから」という説明がある。ちょっと見てみたい。やはり悪の親玉の顔には「極悪」と書かれているのだろうか。戦う銭形平次は「善」と書かれているのだろうか。「善」と書かれている方に不信感を抱いてしまう私も「悪」だろうか。

あさしょうりゅう(朝青龍)

日本の「いじめ」の構造を解き明かすサンプルになった大横綱。

変だよ、日本人。何故朝青龍をここまで追い詰めなきゃいけないの?全く理解出来ない。朝から晩まで「朝青龍がサッカーした」「朝青龍が日本の伝統を無視した」「朝青龍が謝罪しない」「朝青龍を何とかしろ」「朝青龍が病気になった」「朝青龍何処行った」...。

断っておきますが、私は朝青龍のファンではありません(誰が何と言おうと、相撲は寺尾です)。むしろ「嫌い」なタイプだと思う。ルールに従わなかった朝青龍が悪いとも思う。だけど、今回の騒動はおかしい。どう考えても日本人の過熱ぶりは異常だと思う。サッカーをしたことで「相撲界追放」なら分かる。「謹慎」とはどういう事?子供相手じゃあるまいし、そんな罰則で反省を促そうと考える事がそもそも相撲協会の浮世離れを露呈している。「今回(サッカー)の事だけじゃない、過去にもいろいろ」と言われてるけど、それなら何で今までそれを黙認していたの?朝青龍をモンゴルから連れてきた時に、朝青龍が関取になった時に、大関になった時に、横綱になった時に、ちゃんと「国技である大相撲」を理解させたの?誰か教育したの?「頑張れば強くなれるぞ」「横綱になったら英雄だぞ」「やりたい放題だぞ」って言ってたんじゃないの?自分たちの無能さを棚に上げて、ただ「アイツが悪い事した」「気に入らない」「ふざけんな」と、寄って集っていじめてるだけに見える。朝青龍の過去の映像として「相撲部屋で弟子を竹刀でひっぱたいてる図」を探してきて流すTV。「郷に入りては郷に従えと、モンゴルの人も言っている」と、少数意見を引っ張り出して書く新聞。何か圧力でもかかってるの?私には狂っているとしか思えない。

どうかモンゴルの人が日本を嫌いにならないようにと、祈るのみです。

あせ(汗)

私は夏(東京の夏)が嫌いである。そのレベルは「嫌悪」をはるかに超えて「憎悪」に近い。いや、それ以上かもしれない。気象庁発表の最高気温が25度を上回るあたりからストレスを感じ始める。何故そんなに夏が嫌いか、暑いのが嫌なのか、それは全てこの汗によるものである。私のかく汗の量は尋常ではない。たぶんこの文章を読んでくれている方が想像している量の5倍は汗を流していると思う。これは誇張ではない。実際に夏に生活している私の姿を見た人間は、その汗を見て「超常現象」を感じるはずだ。ポルターガイストより恐ろしい。7月、8月ともなれば、朝の通勤で会社に到着するまでに、顔を拭くだけでハンカチ(タオルハンカチね)が使い物にならなくなる。そして、それだけの量の汗を吸収してもはや飽和状態となっている下着を身に付けたまま暮らす一日。
想像してみて欲しい。地獄である。

あづまひでお(吾妻ひでお)

尊敬する人物の一人。漫画家。彼の作品はどれもみな味わい深い。 敢えて「ストーリー」というものを破壊し、そして何を再構築するのかと思えば何もしない。 それをそのまま作品としてしまう大胆さ。読み手の推測を超越した展開、破綻。そしてその作品を鑑賞に堪えうるものにするだけの画力。手塚治虫氏の作品と同様に、彼のキャラクターは紙の上で確かに動いている。

あとがき(後書き)

私の嫌いなもののひとつ。何か未練がましさを感じてしまう。もちろん「後書き」も含めて一つの作品として提示しているのであれば話は別だが、多くの場合そうではない。同様に、文庫本の小説の最後に付け加えられている「解説」も好きになれない。作品の評価は読み手自らが下せば良いのであって、他人の評価など読みたくもない。

あどばるーん(アドバルーン)

高層建築がまだ少なかった頃には、価値のある広告塔であったに違いない。知らない人のために説明すると、空気よりも軽いガスを注入した巨大な風船の下に、これまた巨大な垂れ幕を付けてそこにメッセージ(宣伝文)を書いて空に浮かべるものである。もちろん地上とはロープで接続されている。昭和30〜40年代、デパートの屋上で遊ぶ少年であった私の目にはたくさんのアドバルーンが映っていた。カラフルなアドバルーンたちがあちらこちらのビルから立ち上がり風に漂う姿は、経済成長の『のろし』の様なものであった。最近はあまり見ることがなくなったと思っていたら、先日自分の住むマンションの屋上から空に伸びていた。

あびせたおし(あびせ倒し)

私は『お相撲さん』が好きである。日本が世界に誇る地上最強の男たち。格闘技には様々なものがあり、それぞれが『最強』を謳っているが、私の中では『お相撲さん』がその頂点に立っている。あびせ倒しは決まり手のひとつであるが、それは『技』や『力』というものから人為的に生まれるというよりは、むしろ偶発的に発生することが多い。片方が全身の体重をかけて前進した時に、もう片方の押された側がなす術もなくひっくり返ってしまう。
「何するんだ、デブ!」「お前こそデブ!」

あぶらあげ(油揚げ)

油揚げが豆腐から作られているということを、私は最近まで知らなかった。

あへん(阿片)

試してみたい。ジャン・コクトーや開高健らの作品に描かれている阿片に強く惹かれる。「10分間が1年にも感じられるような深い眠り」というような表現をされると、たまらない。人間は常に意識に縛られている。意識は不純物を多く含み、絶えず説明を求めてくるので好きじゃない。 意味や意義ではなく、存在だけが確かである瞬間、つまり人間が無意識になる状態、反射的な反応でのみ存在できる瞬間が好きである。例えば射精の瞬間、例えば睡眠に入る瞬間である。

あら、そう(あら、そう)

中高年の女性が多用する台詞で、相手に致命的なダメージを与える力を持っている。
この台詞が使われる状況は大きく分けて二つある。

(状況1)相手の話を全く聞いていない場合
「この前電話したけどいなかったでしょ?」
「あら、そう」
「夜ももう一度電話したんだけど」
「あら、そう」
「せっかくケータイ持ってるんだからさ、バッグの中にしまわな...」
「何か食べる?」

(状況2)議論の最中に自分が不利になる、或いは自分に非がある事が判明した場合
「ちょっと!駅員さん!」(剣幕)
「は、はい、はい」(狼狽)
「今210円入れたけど、切符出ないわよっ!」
「す、すみません、ちょっとお待ち...」
「すぐ壊れるのよ、この機械」
「はい、ただ今調べますの...」
「早くしてよね」
「はい、...あっ」
「何よ」
「お客さん、5円玉入れたんじゃないですか?」(反撃)
「...あら、そう」(決着)

あるぷすのしょうじょはいじ(アルプスの少女ハイジ)

銀河英雄伝説やガンダムと共に、日本のアニメーションを代表する名作。アニメに限らず私がTVや映画で涙を流したのは過去この作品だけである。原作、作画、テンポ、声優、音楽、全てが見事に調和している。このアニメを観たことがあるかないかで、その後の人生が変わるのではないか、これを観ることを国民の義務としてはどうかとさえ思う。実は昨日もビデオを観た、けけけ。

あをによし(あをによし)

「飾る」という事の大切さを警告する言葉。

フジテレビのドラマ『鹿男あをによし』を毎回楽しみにしている。主演の玉木宏も好きな役者だし、ストーリーも面白いし、鹿が喋るし(笑)。だがここではドラマについては書かない。タイトルの「あをによし」という言葉を見て、ふと思った事をちょっと。

最近の流行歌の歌詞を読んでいると、妙な気分になるのである。
「あなた」「私」「君」「僕」「愛(しい)」「恋(しい)」「やさしさ」「思いやり」「強さ」「励ます」「支え」「信じる」「負けないで」「いつまでも」...
歌のテーマ、骨格となる言葉の数々が並ぶ。並んで、並んで、並んで、そして終わってしまう。伝えたい事は分かるのだけれど、同じような歌詞の曲ばかりで退屈してしまうのは私だけだろうか。「飾り」が少ないなぁ、と思うのである。メッセージは分かる。思いを込めて歌っている真面目さも伝わってくる。ただ、人に聴かせる歌ならば、もっとテクニックとしての「飾り」が欲しいと思うのである。作詞家と作曲家によって作られた歌が流れていた時代を懐かしいと感じるのは、私が古いタイプの人間だからなのであろうか。

あをによし(あおによし・青丹よし)
奈良にかかる枕詞。枕詞とは主として和歌に見られる修辞。修辞とは、青丹とは...。そんなことは理解していなくても、下に引用した歌を見てもらえれば、感じてもらえると思う。

【万葉集】
青丹よし寧楽(奈良)の都は咲く花の薫ふが如く今盛りなり

この歌から頭の「青丹よし」を取ってしまったら、つまらないものになってしまうでしょ?

あーちぇりー(アーチェリー)

高校に通っていた頃、仲の良かったアーチェリー部の友人に「アーチェリーって日本の弓と違って誰でも簡単に的に当たりそうでイイよねー♪」と言ったら、次の日から無視されるようになった。

いのり(祈り)

過酷な現実に打ちのめされた人間が、無駄と知りつつ行う儀式の事。砂漠に水を撒く行為に似ている。祈りは何処にも届かずに宙を彷徨い、神と呼ばれる残忍な存在によって定期的に消去される。

だが、私も祈る事はある。

先日、買い物に行った近所のショッピングセンターで「福引き」が行われていた。「お買い物3,000円以上で1回」あの「ガラガラ」を回せる。1等から4等までが当たり(お買い物券)で、その他にも特別賞があった。
会場はものすごい数の人である。ただでさえ人間の多い場所の嫌いな私が、苛々しながら行列に並んでいたのは言うまでもない。1分で50cmくらい、前進する。5分で2m50cmくらい、前進する。「ガラガラ」まではまだ10mはある。「はぁ...」と思いつつ、夕飯用に買った「ハスの挟み揚げ」をどう食べようか、何をつけて食べようかなどと妄想しながら耐えていた。
すると私の背中にゴツンと当たるものがある。最初は気にならなかったが、そのいやな感触は二度三度と繰り返された。「何なの?」と思い振り向くと、そこには年齢60歳くらいのオバサン。両手を前に出して抽選券を握りしめている。息遣いが荒い。興奮しているようだ。「はて?」と無視をする。1分が経過し、また50cmくらい前進する。するとまた背中にゴツンと、そのオバサンの握りこぶしが当たる...。つまり、私が50cmほど前進する度に、そのオバサンは75cmくらい前進するわけだ。早く「ガラガラ」したくてじっとしていられない様子である。私の苛立ちはさらに高まった。次に「ゴツン」と来た時に、私は体中の「念」を込めて、「殺すぞ」という視線で睨みつけた。だが無駄だった。オバサンの両目は「$$」の形になっている。何も見えてはいない。

ようやく私の番が来た。すっかり消耗した私は「ガラガラ」を回しながら、心から祈ったのである。

「どうかあのババアに当たりが出ませんように...」

うみのうえのぴあにすと(海の上のピアニスト)

船の中で生まれ、その一生を船と共に終えたピアニストの物語.....では説明にならないか。まあ、仕方がない。映画一編を数行の言葉で表すことなど出来ないし、作った人間に対して失礼なことだ。興味のある方は観て欲しい。観て損はしない秀作である。この映画に限らず、『音楽』がテーマになったストーリーにはいつも心を動かされる。私にとって音楽は、常に神秘の存在である。他の表現方法、例えば絵画、例えば写真、演劇、舞踏、文学など、あらゆる表現方法の中で、音楽が最も「受け取る人間のフィルターを通さずに」まっすぐ心に響くものだと思うからである。美しい音楽は人を幸せにするし、美しくない音楽がもたらす不快感を、人は抑えることが出来ない。

えぬえいちけー(NHK)

きちがいのこと。同意語にNTTがある。
受信料を確保するために、スクランブル化、ペイ・パー・ビュー化してはどうかという提案に対し、意味不明の言葉を発し日本中を凍りつかせた。以下、当時のNEWSサイトからの引用である。
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原田放送総局長と石村英二郎・放送総局副総局長が21日の会見で、改めて「公共放送」の堅持とBSなどのスクランブル導入への反論を述べた。原田氏は「(スクランブル化で)有料放送となれば、見てもらえる番組中心に放送することになる」「わけへだてなく多様なソフトを出すことができなくなる」とし、スクランブル制は「公共放送」としてのNHKの番組内容を変えるとの考えを強調した。
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この人たちは覚醒剤でも打っているのだろうか?それとも何か特殊な宗教に身を捧げているのだろうか?
「見てもらえる番組中心に放送すること」が大事なんでしょ?「少数の人に対しても大切な放送がある」とでも言いたいのだろうけれど、それは見てもらえる番組を放送して、その利益(評価されれば受信料も増える)で行うべきもの。それが出来ない自分たちの無能を棚に上げ、恐喝とも思えるこの声明。何様のつもりなの?根本的に腐ってる。国民からカネを巻き上げて、1日に数台しかクルマが通らない有料道路を作るのと同じ。そもそも民放であれ国営であれ、テレビやラジオは「公共」でしょ?自分たちは特別だという、精神病患者によく見られるこの自意識。こういうバカが胸を張ってるから、日本はいつまでたっても本当の民主国家になれない。あくまでも「国営」を主張したいのなら「受信料」などというオブラートに包んだ言葉ではなく、「国営放送受信税」と名前を変えて国会を通し、国民から搾取するがいい。その代わり、血税を払っている国民に対して不利益になる事を行った時は、死んで詫びろ。それだけの覚悟と責任感を...持てるわけねぇな。

おがたけん(緒形拳)

大好きな役者が逝ってしまった。緒形拳。すぐに脳裏に浮かぶのは、必殺仕掛人の藤枝梅安、そして個人的には映画『火宅の人』の桂一雄(檀一雄)である。前者は俳優としての彼の演技力を世に知らしめた作品として、後者は「堅物」で知られていた彼が、作家檀一雄の破天荒な生き方を見事に演じきった傑作として、心に残る。

今朝のテレビは一斉に彼の死去を報じ、つい先日行われた10月からの新番組「風のガーデン」制作発表会見の様子を流していた。そこで彼はドラマの内容に触れ、「否応なく人は老いて... 病んで...そして否応なく死が訪れる...」と語っていた。彼は自分の死期を悟っていただろうか。おそらく、悟っていたのではないか。だとすれば、重く、切実な言葉だったはずだ。そして、そのコメントを語る彼から、私は彼の最後のメッセージを受け取ったような気がした。

ゆっくりと、ゆっくりと「否応なく...人は...老いて...」と語り、次の言葉を選んでいる時である。彼はすっと、背筋を伸ばした。姿勢を正してから次の言葉「否応なく...病んで...」と続けたのである。「俯いてはいけない」と、思ったのではないか。「俯いてはいけないのだ」と伝えたかったのではないか。私にはそう見えた。そしてコメントの最後に「有り難うございました」と一言。

こちらこそ「有り難うございました」と伝えたい。男という生きものの激しさ、やさしさ、だらしなさ、そして潔さ、全てを鮮やかに見せてくれた俳優として、彼は私の中で輝き続けるだろう。

かおもわるけりゃせいかくもわるい(顔も悪けりゃ性格も悪い)

人間は顔で判断するべきだという考えに基づいた捨て台詞。私はよく使う。顔が悪いから性格が悪くなるのか、性格が悪いから顔が悪くなるのか、ニワトリと卵の話と同じで結論は出ていない。こう書くと「それは偏見、差別」という非難の声も聞こえてくるが、誤解しないで欲しい。「悪い顔」というのは何も目や鼻の形の事を言っているのではない。人間の顔には必ずその人間の「性格」が表れるということを言いたいのである。顔と性格、どちらか一方が良くなれば必ずもう一方も良くなる。これは科学である。そういう意味では「病は気から」と同義語。

かるちょびっと(カルチョビット)

大きな期待をしていなかった物事が、実はたいへん奥深く楽しいものであった場合に使う言葉。「あんまり評判にならなかったけど、あの映画はカルチョビットだったねぇ」などと使われる。
語源は任天堂ゲームボーイアドバンス用のサッカーシミュレーションゲーム。パッケージを見て、その「かわいらしさ」「なつかしさ」に心が動き、3,800円という価格に財布のヒモが緩んだ結果、「ま、ちょっと遊べればイイかな」という気持ちで購入。
ところがこのゲーム、深い。

1)サッカーはじれったい
ゲームの作者である薗部博之氏も言っているように、サッカーとはじれったいスポーツである。そのじれったさが、ゴールの瞬間のエクスタシーを生む。このゲームはそれを忠実に再現している。ゲーム中は選手交代やフォーメーションの変更以外、一切選手を操作出来ないので、ただ見守るだけ。そして選手一人一人の成長具合と、その適性を判断する。試合を見ないで先に進むこと(スキップ)も出来るが、選手を成長させるためのアイテム(課題)をもらえなくなってしまうので、どんなにつまらない負け試合でもひたすら「見る」しかない。
2)だが確実に進化する
オフの日やベンチ入りしていない選手には「特訓」を行う。これがまたじれったい。簡単にパラメータは上がってくれないし、無理をすれば選手は疲労し、ケガをしやすくなってしまう。少しずつ少しずつ、先発組と控え組を上手く使い分けて特訓を続ける。半年も続ければ「S-A-B-C-D-E」のランクが一つ二つ上がっていくが、これも「最初はスイスイ、徐々に頭打ち」という具合でじれったい。だが、選手は確実に進化する。シーズン開始直後には一本もシュートを決められなかったFWが、数年後にはダイビングヘッドを決めているではないか。
3)数値に現れてこない「何か」
ようやく選手が平均的レベル(オールC)を超えるようになってくると、このゲームの奥深さを思い知らされることになる。FWだから「キック力」「スピード」と考えて選手のパラメータを上げてみるものの、思ったように活躍してくれない。逆に「ゴール前は任せた」と育てたはずのDFが、やたらと前線に上がりプレイをするようになる。もちろん「スピード」Aランクの選手は、Bランクの選手よりも早く走ることが出来るのだが、このゲームの選手の動きはそれだけでは判断出来ない。数値には出てこない「選手の性格」が育っているのである。無理な角度からでもすぐロングシュートを放つ選手、パスを出さずにドリブル突破を狙いたがる選手、ポジションに忠実な選手、そうでない選手...むぅ。

DSを含め、GBAソフトをプレイ出来るハードを持っているのならオススメの一本である。グラフィックが平面でも、キャラが二頭身でも、その小さな画面の中には、成長し、活躍し、しかし思い通りには動いてくれないリアルな選手達と、どうしたら勝てるかを真剣に悩んでいる監督(プレーヤー)がいる(笑)。

かるちょびっと_そのご(カルチョビット_その後)

私はまだ悩んでいる(笑)。
本当に深い。深過ぎるゲームである。

おそらくこの「深さ」は、ゲームで遊ぶ人間(監督=私)が勝手に作り出してしまっているのだと思う。そして、そうなることをゲームの作者は予測してニヤニヤしているに違いない。思う壺、である。

前回、特訓によって成長させる選手の能力とは別に、選手の性格が育つ、と書いた。その後攻略本やWEBサイトで調べ上げた結果、選手の「走る」「蹴る」といった基本能力のパラメータの他に、行動パターンを決める裏パラメータがある事が分った。その中で重要だと思われる項目が下記である。
1)ディフェンスのタイプ(ゾーンなのかマンツーマンなのか)
2)自分でボールをキープして突破を図るタイプかパスを重要視するタイプか
3)MFやDFは前線にオーバーラップするか、しないか
4)FWはどの程度動くか(ゴール前に待機する時間、守備に参加する時間)

この組み合わせによって選手がストライカーになったりアタッカーになったり、スイーパーになったりストッパーになったりする。なるほど。それならばと、私好みの選手をポジション別に数年がかりで育てあげ、配置してみる。結果、国内リーグ戦・国内カップ戦・海外でのカップ戦を全勝。私のチームはついに頂点に立ったのである。

が、しかし。
こういうゲームを好きになる人間が、これで満足するだろうか。これ程もどかしくまったりとしたゲームを好きになる人間が、ゲームのエンディングを見たからといってソフトを箱にしまうだろうか。否。「より強く」と思ってしまうのよ(笑)。

そもそもこのゲーム、選手のフォーメーションとDF・FWの基本ラインを変える事が出来る。例えば「3-5-2のシステムでDFラインとFWラインの間隔をコンパクトにして中盤のボール支配率を高めよう」といった具合。この例に最適な選手を育てて配置したとする。申し分の無い動きで監督を喜ばせてくれる選手達。ところが、あるチームに対しては「圧勝」なのに、同じレベルの他のチームには何故か「辛勝」といった現象が起こる。相手チームとの相性(フォーメーション的なもの)も関係しているようだ。そこでフォーメーションを再検討してみる。このゲームでは1チームに2種類のフォーメーションを設定出来、ゲーム中に切替える事が出来るようになっている。2つ目のフォーメーションは「5-4-1でカウンター狙いを」...あれ?
もうお分かりだと思う。3-5-2に最適化した選手は5-4-1では上手く機能しない。それならば控え選手も強化して、3-5-2用の選手と5-4-1用の選手を育ててベンチ入りさせれば...あ、そうか、選手交代って1試合3人までだっけ...げっ、要のMFがケガで退場...うわ、なんだよ相手チームに2億円のスタープレーヤーが移籍してきてるじゃん...

思う壷である。

かんのうてき(官能的)

『官能』は直訳すれば「感覚をおこす諸器官の働き」となるが、通常は性的な刺激を呼び起こされるような状況(雰囲気)に対して使われることが多い。この「状況(雰囲気)」という曖昧な言葉で分かる通り、官能の定義は難しい。例えば、直接異性の体に触れての性的刺激は『肉欲』、性器を露出した写真などは『猥褻』と、それぞれ違う表現になり『官能』とは呼べない。強いて言い換えれば『色気』、か。色ではなく色の気配。見え隠れする性の匂いのことである。肉欲は股間に訴えてくるが、官能はまず脊髄に響く。

きたじまこうすけ(北島康介)

世界のカエラーを代表する「蛙王」。強い人。「東京下町」の英雄。

もう説明の必要はありませんね。2008年北京オリンピック男子100m平泳ぎの金メダリスト、そして世界記録保持者。まだ200mが残ってるけど、感動が薄れないうちに書いてしまおう。

「チョー気持ちいぇ」「なんも言えねぇ…」...彼の魅力は、その正直さ、分かりやすさだと思う。前回の金メダルの後、彼はずっと苦しんでいたよね。「燃え尽き症候群」なんて、勝手に周りでささやく人も居たけれど、彼の苦しみは彼にしか分からない。世界の頂点に立つなんて、想像は出来ても体験出来ない事だから。不貞腐れているような様子を見せた事もあったし、皮肉交じりの言葉で自分を詰る事もあった。彼はそれをそのまま隠さなかった。隠せなかった。彼にクールな、優等生的なものを求めている人には不快だったかも知れないけど、私にはその人間臭さがとても魅力的に見えた。東京下町の悪ガキが「面白くねぇ」と吐き捨てているようで、ある意味痛快だった。

そんな苦悩の中、ある日、ある時、彼の目が変わった。「糞この野郎」という目になった。その変化も実に分かりやすく、はっきりと伝わってきた。彼を変えたのは、彼を追い越していくライバルの姿だったかも知れないし、コーチの励ましや、水泳教室で子どもに言われたささいな一言だったのかも知れない。それも彼にしか分からない。ただ彼は「もう一度やってやる」という意思を、体中から迸らせた。鳥肌が立つような感動を与えてくれるドラマの始まり...。

彼はこれから何をするのだろう。競技者として勝負を続けるのだろうか。それとも違う世界に進むのだろうか。彼を求める人は多いはずだ。CM出演、TV解説者、指導者...多くのアスリートが歩んだ道を、彼もまた進むのだろうか。どんな道であれ、彼にとって素晴らしいものでありますようにと祈らずにはいられないけれど...私の個人的な願望を最後に。

北島、肉屋のおやじになってくれ。

ダメかな。西日暮里「肉のきたじま」で、北島康介がステテコ姿で「メンチカツサンド」を売る。妙に似合うような気がするんだけど。子供たちとの水泳教室を続けながら、「うまいッスよ、チョーうまいッスよ」とメンチカツを売る北島。何年か経って、彼を知る海外の元ライバル達が「キタジマは今何をしてる?」と質問する。そしてそれに「彼は肉屋でメンチカツを売っている」と、胸を張って答えたい。「おわっ?(What?)」と彼らはもう一度問い直すだろう。そしてこちらももう一度「肉屋だよ、肉のキ・タ・ジ・マ」と答えたい。彼らは「わい?(Why?)」としばし沈黙した後、きっと笑顔になると思う。

ぎゃぐ(ギャグ)

「gag」...辞典を開くと、
1.さるぐつわ。自由な発言の禁止。
2.役者が舞台でアドリブ的に言うセリフ。
と書いてある。
二つの逆の意味を含んでいて面白いね。

最近の「お笑い芸人」の質の低下には目を覆いたくなるものがあるけれど、さすがと思わせる人ももちろんいる。二つ、挙げておく。

松本人志(ダウンタウン)の『Hey! Hey! Hey!』でオンエアされた会話。

ゲスト「私、朝早いんですよ」
松本「毎日ですか?」
ゲスト「そう、毎日、4時とか5時には起きてる」
松本「えっえええっ?」
ゲスト「起きちゃうんですよ」
松本「そんなに早く起きて何してるんですか?
   アレですか、公園で樹液を吸ったりしてるんですか?」
   
大竹一樹(さまぁ〜ず)が『リンカーン』で「相手の家族を馬鹿にするセリフ」というお題で書いたギャグ。

「お前んちの気持ち悪いオヤジ、本屋で本読んでたぞ」

ぎんがえいゆうでんせつ(銀河英雄伝説)

独断で言い切ってしまうと、性善説と性悪説の闘い。性善説を信じればラインハルトが、性悪説を信じればヤンが、それぞれヒーローとして眼に映るのではないか。私はもちろん後者である。

げいじゅつ(芸術)

芸術は民衆の中に必ず種子を残している。(芥川龍之介)

その通りだと思う。
少なくとも、種の残らない作品は芸術ではない。いくつかの種はやがて芽を出し、花を咲かせる。芸術家の多くは、その花を見る事なくこの世を去って行くが、それは悲しい事ではない。芸術家にとって悲しいのは、その種が種のまま民衆に埋もれてしまう事、そして民衆が、その種が何処からやってきたのかを忘れてしまう事である。

さいのう(才能)

国語辞典には「物事をうまくなしとげるすぐれた能力」とあるが、それだけでは不完全。「持って生まれた」資質のこと。努力して身に付けるものではない。複雑なDNAの組み合わせによるものか、神の業か。

小学生の頃、図工の時間が嫌いであった。絵が描けないからである。教師はひたすら「見たままを描け」と私を脅迫した。「思った通りに」書く作文と、「見た通りに」描く絵ほど難しいものはない。放課後のドッジボールだけを楽しみに通学していた私にとって、実に憂鬱な時間であった。
ある時、教師は私たちを2人ずつペアにして向かい合わせ、お互いの顔を描けと指示した。真っ白な紙に、である。私は汗ばんだ。タイムマシンに乗って何処かに逃避したいと、祈った。しかし描かねばならない。クレヨンの黒をまず選び、髪を描いていく。髪は何とか描ける。次に肌色を選び、顔の輪郭を描いていく。これも何とかクリアできた。そして眉を描き、目を描き、口を描く。向かい合っている人間に似てはいないものの、人の顔であることは明白だ。ここまでで45分授業の約半分を消化。周りの友達の絵を見ても、まだ完成している絵は無い。いいペースだ。いいペースなのだ。しかし、ここから私の手は金縛りにあったように動かなくなってしまう。
「鼻」である。鼻は描けない。正面から見た鼻をどう描いて良いのかが分らない。10分は固まっていたと思う。汗も流れていたと思う。私は相手の顔と自分の絵の中心を交互に見つめ、悶えていた。時間はどんどん過ぎていく。苦し紛れに隣の子の絵を覗く。黒いしっかりとした線で鼻が描かれている。「そうか」と思う。真似をしてみようと黒いクレヨンを持ってみるが、描けない。何故なら、人の鼻には「黒い線」など何処にも無いからである。見たままを描けと言われているのだ。見えない線は描けない。私は黒いクレヨンを箱に戻し、諦めた。目を閉じて、禅僧のように時をやり過ごした。

授業が終わり、絵を教師に提出する。
「あら、●●君、鼻はどうしたの?時間がなくなっちゃったの?ホホ」

「ホホ」?
「ホホ」だと?

さいばん(裁判)

秋田県藤里町で06年に起きた連続児童殺害事件で、殺人と死体遺棄の罪に問われ、一審に続いて控訴審でも無期懲役の判決を言い渡された畠山鈴香被告(36)について、仙台高検は7日、上告を断念した。上告期限は8日。弁護側は態度を明らかにしていない。

検察側が死刑を求刑したのに対し、弁護側は有期刑を求めていた。

3月25日に仙台高裁秋田支部であった二審判決は、被告の長女彩香さん(当時9)への殺意があったと一審判決より明確に認定。さらに米山豪憲君(当時7)の殺害についても、殺意をもって自宅に招き入れ、首を絞めて殺害したと認めた。しかし、判決は「更生の可能性はある」などとして死刑を回避した。

仙台高検が上告を断念したことについて、豪憲君の父勝弘さんは7日、高検の検事から謝罪されたことを明らかにしたうえで「死刑判決を求めてきた検察がどうして。最後まで戦ってほしかった。子どもの命が軽視されている。上告断念となれば、何も救われるものはない。見放された」と語った。

【asahi.com 2009年4月7日23時12分】より引用


凶悪事件の裁判の度に、いつも感じる事を今回簡単にまとめてみるね。

> 「更生の可能性はある」
論点がずれてると思うんだよね。「何が起こったのか」そして「どう償うのか」を確定させるのが裁判でしょ?「犯人の今後」よりも「償う事」が先でしょ?更生して、無期刑が減刑されて出所して、善良な市民に戻ったとして、それからこの人は被害者遺族に対して何をどう償えるの?刑務所で、国民の税金で飯を食って暮らす事が「償い」なの?

人を殺した人が、生きていていいの?

全く理解出来ません。私が親なら、この先「どうしたら犯人を殺せるか」だけを考えて生きていくと思う。そしてどんな手段を用いてでも、それを実行すると思う。その後、自分が被告になった時に「私は更生する可能性がある」と主張すると思う。

しゃないあなうんす(車内アナウンス)

「車内での携帯電話の利用はご遠慮下さい」
JR東日本から毎日アナウンスされる言葉。これを聞かされる度にいつも頭に浮かぶことがある。
1)オマエは何様のつもりだ。
2)この蒸し風呂のような車内環境は改善されなくて良いのか。
3)携帯電話さえ使わなければ、このエロ新聞を広げるジジイも許されるのか。
4)そんなことをわざわざアナウンスしなければならないほど日本人はバカなのか。

しゅっぱんしゃ(出版社)

偉そうな人が多い。偉いのではなく偉そうな人というところが問題。仕事柄「医学系出版社」との付き合いが多く、手紙やメール、電話でのやり取りが多いのだが、常に「私たちは医学の進歩に貢献している」という妙な自負を持っていることが感じられる。直接会ってみると案の定、背骨が折れるのではないかと思う程踏ん反り返っている。知り合いに「他の業界の出版社はどう?」と訊いてみると、「そうそう、同じ」と。版権を保有している事と作品を生み出している事の区別がつかなくなり、自らが時代の番人であるかの如く錯覚している。単なる商業主義を「文化」というオブラートに包み、水戸黄門の印籠のように権力を振りかざす。
あ・の・ね、作品を生み出してるのは執筆者であって、君たちじゃないでしょ?君たちはただ自分たちの利益のために動いている寄生虫でしょ?寄生虫は寄生虫としての自負を持って生きて下さい。

しょこたん(しょこたん)

ファンである。
「ブログ」というコミュニケーションツールは、彼女のために用意されたのではないか、そう思えるほど彼女の「怒濤の更新」は痛快である。特に、料理に対する彼女の生真面目な姿勢と、その結果とのギャップは、彼女が常人とは別世界に住む生きものであることを証明している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
本名の「中川しようこ」については自身の著書の『しょこ☆まにゅ』で詳しく書かれている。それによれば出産時に母子ともに危険な状態であったため、暫くの間母親が入院し続ける必要があり、伯母が母親の代理として区役所に名前を届けに行ってもらったという。そこで伯母が妹の娘の名前を「薔子」として区役所に提出しようとしたが、「薔」の字が常用漢字及び人名用漢字でなかったため受理されず憤慨、怒りのあまりその場でひらがなで「しょうこ」と書き殴って提出した事による。しかし本来の意図としては「しょうこ」だったが、殴り書きの文字を「ょ」と「よ」の区別が付かなかったために戸籍上「しようこ」と誤って登録されてしまった。この事を中川が知ったのは、成人になってからである。

しんきんかん(親近感)

今までに観た映画の中で、あなたが親近感を抱いた、或いは感情移入出来た登場人物を数名挙げて下さい。また、可能ならその理由を教えて下さい。

『タクシードライバー』の主人公、ロバート・デ・ニーロ
『ブレードランナー』のレプリカント役、ルトガー・ハウアー
『ブレイブ』の主人公、ジョニー・デップ
『アルプスの少女ハイジ』のおじいさん

怒りと憎しみ、愛と諦念。
どんづまり(笑)。

じっぽ(Zippo)

以前は「いつ無くしても後悔しない」100円ライター派であったが、最近はずっとZippoを愛用している。タバコが『嗜好』であるのなら、それに火を付けるという行為もまた趣味であるべきと思い至ったからである。ポケットから取り出し、蓋を開け、火を付け、蓋を閉め、ポケットにしまうという一連の動作の中で、このZippoの『音と重さ』が大切なのだと思う。「風に強い」ということもよく言われているが、実際に風の強い所で火を付けてみると、むしろ自分の指が「火に弱い」ことを思い知らされる。

じゃくにくきょうしょく(弱肉強食)

世の中の基本的な原則の中で、最も真理に近いもの。
第88回全国高校野球選手権大会はドラマチックなエンディングであった。何年経っても「ああ、あの試合」と、人々の記憶に残ることだろう。その素晴らしさやハンカチのエピソードはここでは書かない。紹介するのは今大会の東北地方予選での出来事である。ニュースの記事を引用する。
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問題の行為は7回表、雨が降り続く中であった。高校野球では、7回が終了すれば雨天でコールドが成立し、そこまでの得点の多いチームが勝者になる場面だった。12—1でリードしていた●●高校の▲▲監督が、1死二塁の攻撃で、打者を呼んで空振りを指示した。打者は三振し、走者も無気力走塁でわざとアウトになった。試合はそのまま7回裏で●●高校が12—1のコールド勝ち。
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当然ニュース内では「正々堂々という高校野球の理念に反する行為」として非難されていたんだけど、どうかな。
私はこの行為が悪い事だとは少しも思わない。「正々堂々」を教えるのも、「弱肉強食」を教えるのも、どちらも教育。残念なのはこの行為を監督が指示してしまったという事。選手には監督の指示に従う他に選択肢が無い。もし選手が自主的に考えてコールド勝ちを狙ったのであれば、何ら非難されるべき点は見当たらない。「勝てばいい」、「負けても正しく」、どちらを選択するかは個人の自由である。彼ら高校生は近い将来、社会の中で必ずこの「選択」の場面に出会うことになるのだから。

すいか(スイカ)

所ジョージの名曲。私の頭の中ではかなり頻繁に流れている。
「スイカ見事に真っ二つ ちゃぶ台の上で真っ二つ」
歌詞はこれをひたすらリピートするだけだったと思う。だから全文引用になってしまうので本当は著作権に触れるけど、許してね。この歌詞に「詩」を感じると言ったら変だろうか?頭の中を静かでクリアな状態にして、イメージして欲しい。
(叙情編)
夏の午後である。陽射しが強くかなり暑い日だけれど、縁側からはやさしい風も吹いて来て、時折風鈴を揺らしてくれる。遠くで蝉が鳴いている。そろそろ子供たちが帰ってくる時間。汗をかいて真っ赤になった顔が浮かぶ。西瓜を食べさせてあげよう。畳の上にちゃぶ台、ちゃぶ台の上に西瓜。そしてその西瓜に包丁を入れると、弾けるような音と共に真っ二つ。切り口は輝いているはずだ。
(シュール編)
自分がどうして今ここにいるのかは分らない。長い長い廊下の隅に立っている。床も壁も眩しいほど真っ白だ。出口はどこだろう。ドアは見当たらない。自分はどこからここに入ってきたのだろう。仕方なく前に進んでみる。真っすぐ真っすぐ進んでみる。ようやく突き当たりの壁が見えてくる。しかしドアは付いていない。壁の前に立ち途方に暮れる。ひどく自分が疲弊していることに気付く。これは夢なのかもしれない。夢ならば、そう、夢ならばもう一度眠って目を覚ませばきっといつものベッドの中に戻れるに違いない。そうだ、そうしよう。床に座るために振り返ると、足下にちゃぶ台が置かれている。真っ二つになったスイカが乗せられている。

すかいらーく(スカイラーク)

「絶望」の代名詞。「もう僕は人生にすかいらーくした」「しっかりしろ、すかいらーくするのはまだ早い」などとよく使われる。不思議なことに世の中にはカネを払って絶望を買う人もいる。(反意語:ロイヤルホスト)

すてぃーぶ まっくぃーん(Steve McQueen)

私の中の「ヒーロー」。男の美学の結晶とも思える人物である。
いろいろな映画関連サイトに載っている、彼の略歴をまずは紹介しよう。
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飛行機の曲乗り師だった父は生後6カ月で蒸発。母方の伯父のもと、ミズーリの牧場で育つ。9歳、12歳の時に母が二度再婚し、ロサンジェルスに移るが不良グループと交際。14歳でカリフォルニアの少年院に収容され1年半を送る。出所後、職を転々としていた時に女友達の勧めで演技を学び、舞台を経て1956年「傷だらけの栄光」で映画デビュー。以後、CBSテレビの「拳銃無宿」で人気スターとなり、アクション・スターとして映画界の頂点に立つ。肺ガンにより1980年に死亡。彼の遺灰は太平洋にまかれた。
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もうこれだけで、彼の半分は理解出来るのではないかとさえ思える。波乱に満ちていると同時に、実に「成り行き任せ」的な匂いのする生き方である。もちろん「成り行き任せ」という言葉を、私は肯定的に使っている。一つの目標を定めて、それに向って努力を積み重ねる生き方は大変そうに見えるが、実はそうでもない。得体の知れない「世の中」という海を、成り行き任せに生きる事の方がはるかに難しく、体力を必要とする。成り行きに任せるという事は、より多くを引き受けるという事に他ならない。
彼の魅力も、この生き方に根差したものであるように思う。どんな役柄を演じていても、彼から伝わってくるのはいつも次の無言の台詞である。

「ち、また妙な具合になってきやがった」
「ああ、そうさ、オレはここにいるよ」
「好きにやらせてもらうさ」
「ダメな時はダメ、上手く行く時は上手く行くのさ」

潔い生き方である。肺ガンになった時に行った記者会見では、彼はこの台詞を声に出して爽やかに言い放った。

せんそう(戦争)

『炎のランナー』という映画をご存知だろうか。第一次大戦直後のオリンピックを舞台に、さまざまな若者のそれぞれの生き方を描いた佳作である。冒頭、主人公の一人であるハロルドがケンブリッジ大学キーズ寮にやってくる。フロントで入寮の手続きのためにハロルドと事務員が挨拶をしている.....
「新入生です」
「見りゃ分かるよ、坊や、名前は?」
「ハロルド・エイブラムス」
「出身校はレプトン?」
「そうです、卒業は一年前」
「軍隊だね、フランス戦線?」
「間に合わなかった」
「残念だね」
「戦死者はそんな風に思ってない」

ぜったいかれし(絶対彼氏)

様々な部分が調和して、美しい全体が出来上がる様子。
(反意語:薔薇のない花屋)

いいドラマでした。特に最終話は、最近のドラマの中では極めて秀逸な出来栄えだと思います。原作やキャストも優れていたのでしょうが、何と言っても脚本・演出によるテンポの良さが光りました。

原作を知らなくても、ドラマが最終回に近づくにつれて誰もが「ああ、きっとこういう終わり方をするんだろうな」と読めたはず。その予想通りに物語は進行し、終わり、そしておそらく誰もが、思っていたより心を揺さぶられたのではないでしょうか。

天城ナイト(速水もこみち)が死んでしまう「その時」に近づいていく加速感。それまでゆったりと流れていた川が、滝に向かって急流になっていくような緊迫感。その流れの中で強くなっていく梨衣子とナイトの絆、希薄になっていく創志の存在、それぞれの思い、みんなの笑顔、祝福、願い...そして「その時」。

もっと描いておきたい風景や、掘り下げておきたい人間関係もあったんだと思います。でも、それを省いた。省いたことでこの最終話は見事な交響曲として成り立ったと思います。

Bravo!

そにー(SONY)

モノが壊れた時に人々が発する「It's a SONY!」という捨て台詞の語源となったメーカー。
今や知らない人はいない「ソニータイマー」。その精度は驚くべきもので、保証期間が過ぎてしばらくすると間違いなく発動する。しかも、最近の製品にはオリジナリティのかけらも無い。Appleコンピュータ、CASIO、Panasonicが示す「新しさ」が無い。遠い昔、彼らは開拓精神に満ちていた。彼らの造り出すものは全て、品質・デザイン・アイデア共に世界一であった。私が少年の頃親に買ってもらったラジオは、他のどんなラジオより音が良く、小さく、美しく、そして長持ちした。1979年のウォークマン登場によって、世界中は音楽でいっぱいになった。一体彼らに何が起こったのか?企業を人に例えるなら、病気なのか?太り過ぎてしまったということか?それとも計算ずくの妥協か?だとすれば、悲しい事である。多くの人が彼らに期待するのは、安い製品の安定供給ではない。

そにーにいさん(ソニー兄さん)

映画「Godfather」でジェームズ・カーンが演じたコルレオーネ家の長男。すぐ怒る。本当はやさしい人なのに、あまりにも感情的な性格のため他人に誤解されるタイプの人をこう呼ぶ。なだめる時は「ハイ、サニー、イーズィー、イーズィー」と声をかけよう。三部作のこの映画の中で、私が最も親近感を持つキャラクターである。

たり(TALI)

口の中でドロップを転がすようなオルガンの音。

だいあー すとれいつ(Dire Straits)

1977年に結成されたイギリスのロックバンド。1978年に発表された「Sultans of Swing(邦題:悲しきサルタン)」は日本でもヒットした。1985年にリリースされた「Brothers in Arms」は世界中で「天文学的売上」を記録...ってWEBに書いてあったけど、そうだっけか(笑)。いつも私の中心にいるバンドである。
例えば、例えばである。タバコを一本取り出して唇にはさみ、マッチで火をつけて深く息を吸い、吐き、マッチを金属の灰皿に捨てる。この一連の動作の「音」を想像して欲しい。「シュッ」とマッチを擦り、「シュポアー」と勢い良くマッチが燃える。「ム」とタバコを吸うと「メリメリ」とタバコに火が回る。「パ」と唇の脇を緩め空気を入れて、無音で空気を吸い込み「フー」っと吐く。消したマッチを「チロン」と灰皿に捨てる。
何が言いたいのかと(笑)。
彼らの音楽の魅力は、そういった空気感にあると思うのである。ヴォーカリストの吐息が、ギターのピッキングの音が、シンバルの重なる瞬間の音が、他のバンドよりも生々しく伝わってくる。奏でられる音ではなく、その音と音の間にある「空気」の響きが美しい。「詩は行間を読め」と言われているが、音楽もまた同様である。

ちゃれんじぷらいす(チャレンジプライス)

言葉に隠された意味があることを知り、愕然とする様を表わす感嘆詞。
近所のスーパーに並ぶ商品のいくつかに、「チャレンジプライス!」という文字が入った値札がある。普通、常識で判断すれば「通常価格より安い」と思いがちだが、騙されてはいけない。私が良く買う「ペプシNEX」を見てみよう。
「チャレンジプライス!118円」
確かにコンビニで買うよりはずっと安い。しかし、土日にまとめ買いをするイトーヨーカドーや埼玉県にファンを多く持つホームセンターOhkawaで同じものを見てみれば、98円。安い時には93円。その差20円。20円ですよ、奥さん。
はて、どうして118円を自慢出来るのか?中身が違うわけでもない、何か特典があるわけでもない、しかし自慢気に「チャレンジプライス!」である。
ある日、私にはその理由が分ったのである。チャレンジという言葉に嘘は無いということが、分ったのである。店が「チャレンジ」して値下げ販売をしているのではない。消費者に対し「この金額、あなたは出せるか!」と問いかけていたのである。

ちょいわるおやじ(ちょい悪オヤジ)

普段パッとしないオヤジでも、ちょっとオシャレにキメてみればほ〜ら...ご存知「笑っていいとも」(フジテレビ)の1コーナーであるが、本来の意味は違う。
健康診断の結果で「ちょっと数値に」問題があるオヤジのことをこう呼ぶのが正しい。
最新の流行は「コレステロール値」や「肝機能低下」、そして「糖」である。スポットライトに照らされたステージの中央でそれらは脂ぎった輝きを放っているが、その脇で「中性脂肪」も根強く支持されているし、「不整脈」「血尿」にも捨て難い味がある。
「いやぁ、参りましたな、再検査ですよ、はは」
「おや、あなたも」
「あなたも」
「あなたも」
「はは」
「はは」
少なくない不安と、立派なオヤジになれたという自負の狭間で、くすぐったいような気持ちになる男達。嗚呼。

てんのう(天皇)

私は天皇制を支持する。難しい議論、天皇制の歴史や日本国の在り方、民主主義についてなど、書くことはいくらでもあるし、それについての賛否もそれ以上にあるとは思うが、ここでは触れない。ただひとつ、天皇制を支持する最も単純な理由だけを述べたい。

外国人から「今あなたの国で一番偉い人、あなたの国を代表する人は誰ですか?」と問われた時に、答えを持ちたいと思うからである。総理大臣などの名前を口にしたくはないし、資本主義経済の成功者の名前も挙げたくない。日本を導いた偉人は過去にいくらでもいるが、「今」「誰」の答えにはならない。だから『天皇』なのである。権力者としてではなく、定義されている『象徴』そのものとして。

でかると(デカルト)

フランスの哲学者・数学者(1596-1650)。高校に通っていた私を、見事におかしな方向へと導いてくれた人。当時の私が『方法序説』を理解出来たのかどうかは疑問であるが、名文句「我思う故に我在り」に感化されたことは間違い無い。彼から始まり、約3年間『実存主義の旅』が続くことになるのだが、そんなことはどうでも良い。デカルトには申し訳ないが、今回この辞書に彼の名前を入れたのは、次に書くパロディを紹介したかったためである。なつかしい雑誌、『ビックリハウス』の読者投稿欄に載っていたと記憶している。

我思う故に我在りと我思うと俺もそう思う

でじかめについてのえとせとら(デジカメについてのエトセトラ)

先日、エントリー「RICOH GX100」の冒頭に、私のカメラ遍歴をチラリと書いた。それを補足する意味で、また少し。

何故レンズ交換式のデジタル一眼レフを買わないのか、と。

ポイントだけを先に挙げる。
1)高価である
2)重い
3)最終出力形式はWEBである
4)FZ30はネ申(笑)

まず「価格」について。
各社のデジタル一眼レフの価格は、基本的なレンズキットの入門機なら実売で7〜8万円台から。これを高いとは思わない。よく頑張っていると思う。だが、その「基本ズーム」の性能に納得出来ない場合、価格は跳ね上がる。
Nikonを見てみよう。新製品である入門機D40X。レンズキットに使用されている「標準ズーム:ED 18-55mmF3.5-5.6G II」がニコンの希望小売価格で2万円。値段を考えればたいへん「よく写る」レンズだとは思う。だが、納得は出来ない。そこで、レンズは別のものをと見てみよう。私が常用する広角〜標準のズームで、数多くの実写サンプルを見て納得出来たレンズは「ED 17-55mmF2.8G(IF)」のみ。価格は22万円。にじゅうにまんええん。
さらに、ボディの価格も安くなったとは言え、そこには「レンズ交換」のための様々なテクノロジー、つまり「どんなレンズを使っても、一定レベルの画質をキープする」ことや「レンズ交換時のダスト対策」等の代価が含まれている。交換レンズを多用しない私にとっては、どちらも無駄な機能なのである。

次に「重さ」。
デジタル一眼レフはどんどん小さく、軽くなっている。だが、もはや限界に近づいていると思う。大型のCCDを配置するためにはある程度の本体の大きさは必要だし、画質のために口径を大きく設計するレンズは軽くならない。私はかつてフィルムカメラ時代に、アルミのカメラバッグに一眼レフ2台、交換レンズ3〜4本を詰め込み、さらに三脚を背負って歩き回っていた。当時撮影していた「高山植物」や「山」の写真には、その機材が必要だったからである。そして、その結果は惨憺たるものであった。機材をアシスタントに持たせるプロならともかく、1人の人間がそれだけの荷物を抱えてどれだけの写真が撮れるのか。カメラは充実しても、それを使う人間が疲れてしまったのでは意味が無いのである。今は「スナップ」中心の撮影であるから、本体プラス標準、広角系のレンズだけを持って歩けば、撮影には困らない。そんなに大きな荷物にもならないと思う。しかし、オールインワンのコンパクトカメラほどの機動力は無い。「写したい」と思った瞬間がシャッターチャンスなのであって、レンズをもそもそと交換する気にはなれないのである。

「出力形式」も重要なファクターである。
デジタルカメラの「画質」を考えた時に、コンパクトカメラと一眼レフの一番の違いは何であろうか。それはCCDの大きさである。高級な一眼レフには、35mmフィルムの一コマ分に近い大きさのCCDが搭載されている。コンパクトカメラのCCDは...。下記URLを参照していただきたい。
http://takuki.com/gabasaku/CCD.htm
ご覧の通り、である。カメラメーカーは画素数ばかりをアピールするが、それだけで画質は決まらない。小さなCCDに「1,000万画素」を詰め込むよりも、余裕のあるCCDに「800万画素」の方が写りが良いのは物理的な必然である。画質の面でコンパクトカメラは一眼レフには勝てない。しかし、しかしである。その「画質」とは一体何を基準に判断するのか?そこで問題なのは、撮った写真をどうするのかという「出力」である。メモリカードに記録された数千×数千ピクセルの画像をどう「見る」のか。人によって答えは様々だと思う。超大型のモニタに、原寸に近いデジタル画像として映し出している人もいるかも知れない。A4どころか、A3以上の紙に出力して飾っている人もいるかも知れない。だが私はそういう出力をしない。WEB掲載用に640ピクセル程度にまでリサイズした小さな画像を楽しんでいる。この大きさの画像で、果たしてどこまでCCDの差が出るであろうか。そう考えると、私にとってデジタル一眼レフのスペックは、無用の長物とも思えるのである。

それでも、一眼レフが優れている事に変りは無い。小さなWEB用の写真でも「極限まできれいに」撮りたいと思う人も多いはずである。では、その「きれい」とは何か。「シャープさ」なのか「滑らかさ」なのか、「豊かな色調」なのか「あるがまま」なのか...、これもまた主観の問題である。出始めたばかりの頃のデジタルカメラ(30万画素級)ならともかく、今売られているデジタルカメラはどれもみな「きれい」に写る。それぞれの画像の違いはもはや「個性」と呼べるレベルにあると思う。以前フィルムカメラを使っている時に、Nikonの一眼レフよりもコニカ・ビッグミニで撮った写真の方が「きれい」に見えた事もある。それと同じような事が、デジタルの世界でも言えるようになったのではないか。私が今使っているLUMIX FZ30、これは恐ろしい程「きれいに」撮れるカメラだと、私は思う。私がWEB用に写真を撮る上で、このカメラ以上にコストパフォーマンスに優れた機種は、今のところ見当たらない。見当たらないので、買う必要が無いのである。家電メーカーのカメラなどと侮って欲しくない。一眼レフにあって、FZ30に無いもの...それは光学式ファインダーだけである。

でじたるかめら-その1(デジタルカメラ-その1)

地球暦2001年、帝国暦3年。カイザー・シロクマンは、デジタルカメラOLYMPUS/E-10を手に入れるために、それまで愛用していたフィルムカメラを全て売り払うという暴挙に出た。
彼は、総重量にして5kgを超えるNikon艦隊を始め、唯一の中判戦艦である「Mamiya 6」、機動力では敵なしと恐れられた駆逐艦「Konika ヘキサー」、さらにはストロボ、レリーズといった小部隊までをも引き連れ、小惑星マップカメラに奇襲をかけたのである。この突然の攻撃に対し、ただでさえ日曜日のおやぢ族から連続攻撃を受けていたマップカメラは、「ちょっとお時間がかかります」と降伏せざるを得なかった。「フィルムをスキャンしてモニタで見るのは無理があるなぁ」と妻に呟いてから僅か3日目のことである。この戦いで運良く生き残った駆逐艦「ヘキサー」と、代償として手に入れた20数万円の現金を手に、彼は「最も発達した経済」の象徴である惑星ヨドバシカメラに強行着陸。間髪を入れずに目的であったOLYMPUS/E-10を奪取する。シロクマンは言った.....「これでカメラバッグが軽くなるね」。
銀河の歴史がまた一頁。

でじたるかめら-その2(デジタルカメラ-その2)

本屋に並ぶデジカメ雑誌をパラパラと立ち読みしていて、何だか妙な気持ちになってしまった。「初心者のためのデジカメ選び」の類、「きれいに写すには」の類、その辺りまでは素直に読めたのだが、「きれいに仕上げる」のあたりから気分は複雑になってくる。そこには『パソコンでの加工』のありとあらゆる技法が書かれている。「こんな失敗をした時は」から始まり、「さらに美しく見せるには」と続く.....
写真は「ありのまま」に写るから面白いのではないのか。その機能は時に撮影者の意図を裏切るけれど、それもまた写真の魅力ではないのか。「自分の目で見ているもの」と「自分で見た(と思っている)もの」の違い、写真はそれを教えてくれる。人間は狡く出来ているから、今見ている被写体を必ず何処かで自分の好みに修正してしまう。出来上がった写真を見たときに「こんなはずではない、もっと.....」と思うのは、(露出ミスやピンぼけは別として)自分の記憶を無意識に修正してしまっているからだ。逆に、何気なく撮ったスナップの1コマが思いがけず印象深い作品になってしまうこともある。プロと呼ばれる人たちは、その辺りをしっかりと計算に入れてシャッターを切る。ファインダー越しに自分が今見ている被写体が、写真になった時にどう変わるかを予測しているのである。写真が自己表現である以上、出来る限り自分が写したかった風景を自分の好みに仕上げたいとは思う。だが、上に書いたパソコン上での『加工』はどうだろう。それはもはや写真とは別の、コンピュータ・グラフィクスなのではなかろうか。そうすることを否定はしないが、それを「写真」であるとは言って欲しくない。

でんちゅう(電柱)

♪僕は3丁目の電柱です。雨の日風の日街角に立ち、通りを見てます眺めています♪.....いい詩だと思う。東京電力のCMソングであったと記憶している。最近は送電線の地下ケーブル化が進み、その数は気付かぬうちにどんどん減ってきている。その昔、木で出来ている電柱に裸電球が街灯として取り付けられていた頃、夜はまだ暗いものであった。

なかたひでとし(中田英寿)

2006年ワールドカップの直前に彼は言った。「日本代表チームは強くなってるんだろうか?一人一人のテクニックやパワーは確かに上達している。でも、チームとして強くなっているんだろうか?」
彼の言葉が正しかった事は、予選敗退という結果が見事に証明した。
彼がいなければワールドカップに出場すら出来なかった事は明白である。彼は今までの日本のサッカー選手の誰よりも才能に恵まれ、努力をし、日本サッカーのために尽力した選手である。しかし...。
サッカーは意思伝達のスポーツである。試合中に数限りなく放出される「意思」というボールを、目に見えぬベクトルを信じて仲間とやり取りをするスポーツである。彼のベクトルは仲間に伝わっていただろうか?私の目にはそのコミュニケーションが見えなかった。
彼はマスコミが嫌いである。それは誰の目にも明らかで、彼へのインタービューの放映はいつも妙な緊張感を伴っている。その緊張感こそが、彼と他の選手との間に溝を作ってしまうのではないか?
彼を弁護する人は言うだろう。「マスコミは彼の本当の姿を理解していない」「彼が嫌いなのは、無知で遠慮の無いインタビュアー」「彼ほど真面目に日本サッカーの事を考えてる人はいない」「彼とコミュニケーションが取れないのは、その人のレベルが彼と違い過ぎるから」
確かにそうなのかもしれない。同じ事を繰り返し質問する無能なインタビュアーに、「あなた、僕の話聞いてます?」と苛立つ彼は間違っていない。最も得点の可能性の高いポイントに出した彼の精度の高いパスを、受け止められるだけの選手がいなかったということなのかもしれない。しかし...。
サッカーは意思伝達のスポーツである。自分と違う人間、自分の事を理解出来そうにない人間に、自分をどう伝えるかが重要なのである。彼自身がこの事を一番良く分っていたのではないだろうか。予選敗退が決定した最後の試合の後、他の選手がスタンドに手を振っている時に彼はフィールドに仰向けになっていた。

なすかー(NASCAR)

National Asociation for Stock Car Auto Racing(全米ストックカー・レーシング協会)の略。市販車に似たマシン(ストックカー)に700馬力以上のエンジンを積んで時速300キロでオーバルコースを走る(たまに普通のサーキットも走る)。日本では自動車レースと言えばまず『F1』ということになっているが、個人的にはNASCARレースの方が面白いと思う。最初に観た時は「ただのオーバルコースをぐるぐる回って、何が面白いのか」と感じたが、そこには実に奥深い『駆け引き』があって、知れば知るほどその魅力に引き込まれていった。F1レースが「マシン」主体であるのに対し、NASCARレースは「人間」が中心になって展開されている。タイヤ/エンジン(の能力)が規定によって統一され、ボディも市販車と同じ形状であることで、よりドライバーの能力、ピットクルーの作業スピード、サーキット毎、ピットイン毎のセッティング(空気圧を変えたり、サスペンションにくさびを挟んで硬さを調整したりもしている)が重要となってくるのである。さらに「フォーミュラカーではない」イコール「多少ぶつけても大丈夫」というハードな展開。最後の一周まで目が離せない。

なつ(夏)

寺山修司。「僕は不完全な死体としてこの世に生まれてきた」という彼の言葉には少なからず衝撃を受けた。夏になると何故か毎年彼のことを思い出す。特に彼の作品に詳しいわけでもなく、何故結びつくのかは分からない。「夏」という言葉、字面を見ていると、彼の歌の中で描かれていた少年の姿が浮かんでくる。少年は野原に、今でも挑むような眼をして立っている。火照った頬には少し風が吹いていて。

ねっとすけーぷ 6(Netscape 6)

不可解でひどい有様であること。理不尽であること。「君の言うことはさっぱりNetscape 6だ」「そんなむごいことを.....それではまるでNetscape 6」などとよく使われる。また、自分の立場というものが全く分かっていない人間の例えとしても使われる。そういう意味では「森総理」と同義語。やれW3Cの勧告だ、HTML4.1だ、モジラだゲッコーだと騒ぐ前に、ソフトウェア自身の基本的な品質を向上して欲しい。あれだけメモリを使って一体何を解析しているのか?超ヘビー級と言われるグラフィックソフトの上を行くあの動作の遅さは何なのか?Internet ExplorerにWEBブラウザのシェアを奪われ焦る気持ちは理解できるが、リリースしたVer.6(特にMac版)はとても製品と呼べるレベルに達していない。ユーザーにバグ取りを任せるという姿勢は、むしろMicrosoft的とも言える。無料だから許されると思っているのなら大きな間違いで、こちらとしては慰謝料を請求したいとさえ思う。Macintoshでさえ"標準ブラウザ"としてしまったInternet Explorerを苦々しく思い、何とか失地回復を期待していた古くからのNetscapeユーザーほど、今回のVer.6に対する失望感は大きいのではないだろうか。このままでは失地回復どころか、『その役目を終えたNetscape』というシナリオの進行が加速されるばかりである。

ばらのないはなや(薔薇のない花屋)

物事が少しずつ破綻していく様子を表す言葉。
同義語に「台無し」「spoil」などがある。

まず三浦友和が無表情でドラマを壊し、
続けて竹内結子が相変わらずの大根ぶりで引っ掻き回す。
序盤の重苦しい緊張感は何処へやら、
もはや脚本は空中分解して収拾がつかず、
中途半端なコメディにしか見えない。

P.S. 山下達郎さんへ
「あなた」を「あんなんた」と歌うのはやめて下さい。
「何もいらない」を「何もいんらんなんい」と歌われると、
笑ってしまいます。

ふつうかわせ(普通為替)

【任天堂オンライン販売お問い合わせ窓口】宛メール

これは問い合わせではなく、意見です。

本日、DS用の充電池を購入するために初めて郵便局で「普通為替」なるものを購入しました。
1905円の商品代金を支払うのに、発行手数料420円はあまりにも理不尽。切手代を入れれば500円です。何故このような支払い方法しか選択肢が無いのか、全く理解出来ません。

「定額為替」(2000円)にすれば、こちらの支払う手数料は200円で済みますね?それを期待しているのですか?日本郵便と結託した「商売」ですか?フィードバックでもあるのですか?
せめて銀行振込(ゆうちょ銀行振替を含む)の前払い、もしくはクレジットカード決済を利用出来るようにするべきではありませんか?

今まで任天堂という会社に対して抱いていた信頼感が、かなり損なわれました。

以上

ふるーつぎゅうにゅう(フルーツ牛乳)

昭和30〜40年代、銭湯で売られている飲み物の中で「コーヒー牛乳」と共に子供から親しまれた得体の知れない飲み物(失礼)。色はオレンジのようでピンクのようで肌色という感じもあり、牛乳であるから当然乳白がかっている。味は、味は説明に苦しむ。桃の味がしたような、そこに柑橘系の味も混ざっていたような、トロピカルと言えば言えなくもないような。とにかく、私はよく飲んだ。子供心に「これはとっても清らかな味がする」と、訳の分からない感想を持って飲んでいたのである。

ぽぴゅらす(ポピュラス)

同じ事を執拗に繰り返す事を苦にしない性格の事。同義語に「職人気質」「パラノイア」がある。

「印象に残るゲームは?」と聞かれたなら、
『ポピュラス』
『大戦略』
『マッデンNFL』
『グランツーリスモ』
『サイレントヒル』
『バイオハザード』
『ウンジャマラミー』
『ケロケロキング』
『どうぶつの森』
と答える。

どれも名作揃いだが、一つだけ「今」プレイ出来ないゲームが含まれていた。それが『ポピュラス』。遠い昔、パソコン(Macintosh)でプレイしたように記憶している。もしゲーム機用のソフトならば、手放すはずが無い。最初にプレイした時は「何だかよく分からないゲーム」「でもついやってしまうゲーム」という印象。それから数年間、「またやりたいなぁ」と思い続けていたが、不思議な事にリメイクされず、先日ようやくニンテンドーDS版が発売された。

面白い。
やはりこのゲームは面白い。DSの画面の大きさでグラフィック的に制限は多いものの、基本となるシステムは昔のままで、「ああ、懐かしい」「そうそう、昔もこれで困ったんだっけ」とニマニマしながらゲームを続けてしまう。どんなゲームかを知らない人は、下記リンクを参照して欲しい。

http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0803/07/news007.html

このゲームの一番の特徴は、どうすれば勝てるか、どうすれば高得点につながるかが極めて分かりにくい事である。そういう意味では人を選ぶ。いち早く「コツ」をつかんで、その公式に従ってぐいぐいゲームを進めて快感を得るのが好きな人には向かない。むしろ「よく分からない」「分からないけど面白い」「この面クリアしたけどもう一回」と、同じ事を飽きもせずに繰り返す事に快感を見出せるタイプの人にお勧めである。

このゲームは人類の原始的な興亡を単純化して箱庭に詰めたものである。「リアルタイム・シミュレーション」の元祖と呼ばれる事も多い。「よく分からない」「分からないけど...」という感想は正しいのだと思う。それこそが「世の中」のシミュレーションではないか。

まいくろそふと(Microsoft)

鬼畜。

まえむきにけんとうする(前向きに検討する)

何もしないということ。政治家がよく使う。日本語の曖昧さを悪用すると、いくらでも同じような言い回しが可能になる。「善処したい」も同義語として有名であるが、こちらはまだ「したい」という言葉を使い、これは願望であるよと表明しているだけ良心的。

まんいんでんしゃ(満員電車)

日本人の精神的貧しさを象徴する乗り物。誰もが不快に思っているのに、誰もそのメカニズムに反論しない。蒸し風呂のようになっていても、窓さえ開けようとしない。そのくせ自分だけは少しでも楽をしようとする輩も多い。
通勤時、混んだ電車に乗っていて疑問に思うことは無いだろうか?「この人は何故今立っている所から動こうとしないのか?」と思うことは無いだろうか?駅に着くたびにドアが開き、大量の人間が流れ込んでくる。その流れを何とかして堰き止めようと、人柱にでもなったかのごとく、頑なに自分のポジションを守ろうとする人を私はよく見かける。実に迷惑な話である。私は男であるから、相手が男の場合は筋力勝負に出る。それで解決する。困るのは女の場合である。下手に押したりするとどんな言いがかりを付けられるか分からない。最近少しずつ普及している「女性専用車両」の終日運転を希望する。化粧品の刺激臭が充満した車内で、どうか窒息して下さい。

もりしんいち(森進一)

忘れた頃に度々訪れる暗いもやの様なもの。耳を澄ますと「おふくろさん」という声も聞こえる。
あまり好きな人ではないし、彼の事については私よりも詳しい人がたくさんいると思うので、ここでは彼に関する「笑い話」を2つ。どちらも事実そのままである。

1)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用。

森 進一(もり しんいち、1947年11月18日 - )は、演歌歌手。演歌のみならず日本の芸能界を代表する大御所の一人に数えられる。本名は森内 一寛(もりうち かずひろ)。 元妻は大原麗子と森昌子。
セミヌード写真集を出したことがある。

2)以前ラジオで、「街で見かけた有名人」といった投書コーナーがあり、そこに「銀座で森進一夫妻を見た」というハガキが紹介された。

私は先日、銀座四丁目の交差点で森進一・森昌子夫妻を見ました。お二人は買い物途中だったようで、大きな紙袋を持って仲良く信号待ちをしていました。昌子さんの方はとても楽しそうに進一さんに何か話しかけていましたが、進一さんの方は前を向いたまま眉間にシワを寄せて、何だか「眩しそうな」顔をしていました。

やっほろほいほいほーい(ヤッホロホイホイホーイ)

フジTV「ポンキッキーズ」で流れた名曲「チビミミナガバンディクート」の中の掛け声。ストレスを感じた時に口ずさむと「何とかなりそうな気がしてくる」という効果を持つ。歩き疲れた時に「となりのトトロ」で流れる「さんぽ」(♪歩こう、歩こ〜う)が効果的なのと同じ。
「せ〜のでいくよ!」
はい、いきます。

やわはだの...(やわ肌の...)

やわ肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君
ご存知の通り与謝野晶子の歌であるが、昔この歌がTV-CMに使われていたのを憶えている方はいるだろうか。サントリーワイン『レゼルブ』のCM。ナレーションは森山周一郎氏だったと思う。「人は美しく生きて.....」というセリフが妙に心に残っている。最近では当たり前になってしまったCMの手法(商品の具体的な効能については語らずに、その商品の持つイメージだけをメッセージとして流す)を日本に浸透させたのはこの企業ではなかろうか。

ゆうびんきょく(郵便局)

間違ったことはしていないが、その姿勢に何かもう一つ物足りないものを感じる時に使う言葉。
「今日の試合、巨人は10本のヒットで僅か1点のみ」
「そうですねぇ、選手はよく頑張っているんですが、ちょっと郵便局ですね」
などとよく使われる。
先日、年賀状の切手を買いに行った時の事である。私は年賀状に使う¥50切手を40枚、普段よく使いそうな¥20切手を10枚、合計¥2,200分の切手を買った。手元に1万円札しかなかったので、¥10,000とポケットに入っていた¥200をあわせて窓口に。おつりはちょうど¥8,000となるはずだったのだが.....、何故か出されたオツリに10円玉が混じっている。
「はて、消費税は関係ないはずだし、.....ん?」
とレシートを見る私に、郵便局の窓口の人はものすごく丁寧に、かつにこやかにこう言った。
「はい、お客様から¥10,020のお預かりでしたので」
.....
そう、私が出したと思っていた¥200は¥20だったのですね(笑)。なるほど。それは確かにその通り。ええ、ええ、まったくその通りでございます。非の打ち所のない完璧な窓口業務でございます。.....で、でもさぁ、お金を出した時点でさぁ、あれ?って、思ってるわけでしょ?その時に「ん?お客様、¥10,000と¥20でございますね?」って、にこやかに私の間違いを指摘してくれてもイイのではないかと、思うのですよ。それともアレかなぁ、そういう風に指摘され「何だコノヤロー、オレが出した金なんだ、そのまま受け取れねえのか」とか、そういうトラブルの元になるとでも思ってるのかなぁ。今回の郵便局だけではなく、過去お世話になった郵便局の窓口の人っていつもみんな親切で丁寧な対応をしてくれる人ばかりなので、責めてるわけじゃないんだけど、ね。

よしいかずや(吉井和哉)

先日TVの歌番組で彼が歌っている姿を久しぶりに見た。生ギターをぶら下げて歌っていた曲(Beautiful)が妙に引っ掛かったので、TUTAYAにGo。イエローモンキー解散後のソロアルバムを3枚聴いてみた。

すごい。

どの曲もみな素晴らしいのだけれど、特に感動したのはファーストアルバム『at the BLACK HOLE』の1曲目「20 Go」。それはもう小学生でビートルズを聴いた時と同じくらいの衝撃(笑)。鮮烈な歌詞と重く美しいメロディ。この曲をファーストアルバムの1曲目に置いたという彼のセンスにも脱帽した。

説明の無い、放置された言葉が、重く濁った液体の中で微生物のように生きている。沈殿したり浮かんだり、くっついたり離れたりしながら、ネバネバと遊んでいる。それは絶望的な光景のようでありながら、少し微笑ましくて、懐かしい匂いがする。気が付くと、私もその液体の中に閉じこめられている。遠くからひどく美しい旋律が響いてくる。振り返ろうともがくと、甘い粘液が私に流れ込んでくる。息が出来ない。息が出来ない。

とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ おぅ
とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ
とぇにとぇにごぅ

遠ざかる意識の中で私は、細胞を愛撫されている事に恍惚としている。

りこーじーえっくすひゃく(RICOH GX100)

小学生の時に初めて使ったカメラ、オリンパスペン。中学生の時に使ったミノルタSRT-101。で、ニコンのFシリーズを経て、デジカメ(オリンパス E-10)に移行し、今はLUMIX FZ30。

最初にデジタルカメラを手にした時から、素朴な疑問がありました。

「どうして縦写真を撮る時に、フィルム時代と同じようにカメラを横に90度ひねらなきゃいけないの?」
「どうして4:3ばかりで3:2や1:1が無いの?」
デジタルなんだから、電気信号なんだから、縦横の切替えも画面比の切替えも簡単なはずなのに...3:2はデジタル一眼レフの普及と共に浸透し、ようやくコンパクトカメラにも採用されるようになったけど、「縦写真」と「1:1」は未解決のまま。特に「1:1」は欲しかった。どうしても欲しかった。サブカメラのLUMIX FX7を1:1撮影に使うために、液晶モニタの左右両端を黒マジックで塗りつぶそうかとも考えた。ローライフレックス(二眼レフ)がそのままデジタル化されないだろうか...とんでもなく高いんだろうなぁ...何処かのメーカーが「オマケの機能」として、冗談でもいいから「1:1」を採用してくれないだろうか...コストダウンのために削られちゃいそうな機能だよなぁ...でも欲しいなぁ...。待ち続ける事、7年。

あった(^o^)。

RICOH GX100。
24-72mm(35mmカメラ換算)というマニアックな広角重視のズームレンズを搭載し、画面比は「4:3/3:2/1:1」から選択、カメラ背面の液晶モニタとは別に、カメラ上部に可動式の液晶ファインダーを「取り付けて」使うという、もう「変態」と言ってもいいくらいの異端児。ああ、何て魅力的なカメラなんでしょ。写りなんかどうでもいい、使い勝手なんて悪くてもいい、とにかく「1:1」が撮れる。しかも「取り付けて」使うファインダーを起こせば、カメラを上から覗き込んで撮影する「二眼レフ」スタイル。もう、買うしかない。金は無いけど、買うしかない。安くもないけど、買うしかない。

買いました。
これでやっと...やっと、デジカメで「1:1」のモノクロ写真が(感涙)。

るびー(ルビー)

日本語では紅玉と書かれる赤い宝石。最近実物をじっくりと見る機会があり、その「宝石らしい」輝きにすっかりルビーのファンになった。その美しく、深い輝きは花で例えるとやはり薔薇であろうか。薔薇と同様ルビーにも棘があるので気をつけた方がいい。「アタシ、ダイヤなんて欲しくない 誕生石のルビーでいいわ」などと言われ、迂闊に返事をしたりするととんでもないことになる。良質なものは恐ろしく高価なのだ。

るーむさーびす(ルームサービス)

考えられないようなことが起こって驚くさまを表す言葉。「そ、そんな、ルームサービスな!」などとよく使われる。
ホテルのルームサービスは恐ろしい。値段が高いだけではなく、時には人に怪我をさせることあるのだ。先日京都に旅行した私は、うっかりこのルームサービスで夕食を頼んでしまった。運ばれてきたのは私の食べるハンバーグステーキと妻の食べる海鮮ピラフ。TVを見ながら「まあ、特別美味しくもないし不味くもないね」とのんびりと食事をし、満腹した。ここまでは良かった。食事の後に風呂に入り、明日の予定などを話し合っているうちに、旅の疲れからかいつもより早めに眠気がやってきた。「じゃ、寝よう」とベッドに入ろうとしたとき、ふと気付いた。テーブルの上に置いたトレーと食器、このままで良いのだろうか?目障りだし、きれいに食べているとはいえ匂いも気になる。そこでそのトレーと食器類をきれいに重ね、部屋の入り口付近の通路(バスルームの前)に置いて、ベッドに入った。ここまでは良かった。察しの良い読者の方なら、この辺りでもうオチが見えているかもしれない。翌朝、私はトイレに行きたくて目が覚める。私の視力は両眼でも0.1くらい。トイレ(バスルーム)の前の通路は暗い。私は半分まだ眠っている。ヨタヨタと歩いていく。歩いていく。歩いていく。(完)

わらいばなし(笑い話)

谷川俊太郎の『33の質問』という本がある。そこにはタイトル通り33の質問が用意されていて、読者がそれに答えることで読者自身の中の「何か」がinspireされる仕掛けになっている(興味のある方は是非読んでみて欲しい。さまざまな人にその質問に答えてもらい、著者がその相手と対談するという内容だったと思う。その33の質問の中の「好きな笑い話をひとつ、披露して下さいませんか?」に対する答え(誰の答えだったか、あるいは著者本人の答えだったか)の一つが妙に印象深かったので紹介したい。
ジャングルの一本道を歩いていると一匹の象が両足を前に投げ出してこちら向きに座っている。不思議に思ったので訊いてみた。
「象さんこんにちは、ここで何をしているの?」
象は静かにこう答えた。
「この道をもう少し先に進むと分かるよ」
そこで一本道をさらに先へと進むと、またしても象が座っている。さっきの象と同じ姿勢だが、今度はこちらに背を向けている。
「象さんこんにちは、ついさっきも君と同じような象さんがいたけど、一体君たちは何をしているの?」
象は静かに答えた。
「僕たちブックエンドごっこをしてるんだ」

んまい(んまい)

「うまい(美味しい)」の最上級を表わす言葉。
語源はフランクフルトのゼーゼマン氏が、ハイジにもらった水を飲んだ時に言う台詞。
「んまいねぇ...こんなにんまい水を飲んだのは初めてだ、ハハハハハ」