ああ(ああ)

これからもエロ映画というものは存続していくのだろうか?あまりにもビデオレンタルが普及してしまい、その存在価値がすっかり薄れてしまったようで寂しい。どう見ても中学生にしか見えない中学生が、必死に年齢を偽って映画館の窓口で切符を買うことが、正しい「性の目覚め」である。そこでその中学生は、西洋の女が「ああ.....いや」ではなく「ほぅ.....かもん」と身悶えることを学ぶ。

あい(愛)

確か遠藤周作氏の作品だったと思う。とある村で、一人の男が病気になって寝たきりになる。その病気を治す術は無く、しかも伝染性のものであったから、周りの人々は彼を遠ざけ、山の中腹にある人の近づかない小屋の中に彼を隔離した。人々は日に何度かその小屋のそばに食べ物を置いては逃げるように帰ってしまう。やがて時が経ち男の病状が進み、もはや時間の問題となった時、その村にイエスが現れる。ここでイエスが彼を救うのなら美しい奇跡の物語になるのであるが、そうではない。ここに現れるイエスは全くの無力なのである。水を葡萄酒に変えることも人々の苦痛を取り去ることもできない、ただの人としてイエスはやって来る。イエスは人々の話を聞き、病の男が寝ている小屋に向かう。小屋の中にはもう食べ物を口にすることも出来ず、苦痛に息を乱す男が寝ていた。イエスは彼の死期が近いことを悟る。イエスは彼の枕元に座り、手を握ってこう言うのだ。「私にはあなたの命を救うことが出来ない。あなたの苦痛を和らげることも出来ない。ただ、私はここに居る。あなたは一人ではない」

あいうぉんとゆー(I Want You)

ビートルズのアルバム『ABBEY ROAD』に収められたジョン・レノンの曲。私はこの曲がたいへん好きである。『LET IT BE』に収められた「Across The Universe」と同様に、彼の声の魅力が最大限に発揮されていて、何時間でも読経のように聴いていたいと思う。以前何かのTV番組が人間の声に含まれている『α波』について調査をして、彼の声を「α波を多く含んでいる声」のサンプルとして聴かせていたが、その声が持つ人を惹きつける魅力についての説明には不十分だった。彼は死んで「伝説」となり神格化された感もあるけれど、もっと単純に、歌い手としての彼の魅力がクローズアップされても良いのではないかと思う。

あいぽっどしゃっふる(iPod shuffle)

自分の好きな曲だけをランダムに流してくれるラジオの事。

そう考えると、楽しい。長い間ずっとiPod(第3世代)を使っていたが、充電池の劣化が進み、フル充電しても約2時間程度の使用で限界がくるようになってしまった。おそらく充電池の交換には数千円が必要になるはずなので、それならばと「使い捨ての充電池」としてshuffleを購入。

今までシャッフル機能は使った事がなく、「聴きたい曲を聴きたい時に聴けない」のはどうかなぁ...と思っていたが、いざシャッフルさせてみるとこれが楽しい。「次、何が来るかな」とワクワクし、見事にハマった時の気持ち良さ、逆に「ここでコレが来るのかよっ」とハズした時の面白さ。

買ったのは新製品で売られている「あなたに話しかける」タイプではなく、その一つ前のモデル。最新タイプは本体に操作部が無く(イヤフォンケーブルにコントローラー付き)、イヤフォンを選べないので問題外。同じような理由で購入を躊躇っている人は多いはずだ。Appleはどうするつもりなのだろう。そういう人はiPodの上位機種を買えという戦略か。「話しかけてくる」と言っても、悩殺ヴォイス(笑)の秀島史香(注:音出ます)がDJしてくれるわけでもなし、「モヤモヤさまぁ〜ず2」のコンピュータヴォイスと一緒で、コミカルさはあっても音楽に馴染むものでは無い。

あおいゆう(蒼井優)

蒼井優は評価が難しい女優だと思う。逆に言えば、簡単に評価出来ない「凄さ」みたいなものを感じる。心の奥底に、何かどろどろした情念のようなものを持っていそうな気もするし、いや、実はこの子はアッケラカンと何も考えてないんじゃないかと思わせる時もある。特別演技が上手だとは思わないが、見る者の視線を引き留めておく「何か」を持っている。

彼女の演技には、いつも不純物が混じっているように見える。それは、少女を演じている彼女から漂う「おんな」の匂いだったり、その逆だったり。にっこり笑っている目の奥に悲しみや怒りが見えたり、その逆だったり。それが全て「演技」なのか、隠せない彼女の本性なのかは分からない。分からないところが、そのもどかしさがまた彼女の魅力であり、凄さなのである。世のオジサン達はもうメロメロである(笑)。

彼女自身が以前、「周りの女優さんをみると、みんなすごくそれぞれに個性が強くて...私には個性が無いなぁって思って...でもそれが私の持ち味なのかなって思い始めて...」と答えていたのを思い出す。確かに「どんな人?」と考えて、すぐに答えが出せるような個性を彼女は持っていない。だがフィルムの中で動く彼女は、違う。「ゆらぎ」のような柔らかい空気を作り出すかと思えば、強く射貫くような視線を投げ、屈託の無い笑顔で空を見ていたかと思えば、全てを知り尽くしているかのような不敵な表情も見せる。

映画監督から見れば、これほど魅力的な「素材」は他に無いのではないか。そして映画を観る私たちも、この「不思議な女の子」が次に何を見せてくれるのかをつい期待してしまう。圧倒的な存在感を持っているわけでは無いのに、彼女はいつも「気になる」人なのである。

あかせがわげんぺい(赤瀬川源平)

尊敬する人物の一人。芸術と日常の境界線、紙一重、剃刀一枚の境界線の上を、絶妙なバランス感覚を持って歩く人。"超芸術トマソン" "路上観察" "脳内リゾート"等、彼の造語は常に斬新で心に響く。尾辻克彦の名前で優れた小説も数多く残している。事物の持っている雰囲気、空気感、磁力といった、言葉では説明の出来ないものを巧みに表現する達人。

あくだま(悪玉)

手元の辞書には「江戸時代の絵草子などで、「悪」の字をまるい形の中に書いて悪人の顔をしたことから」という説明がある。ちょっと見てみたい。やはり悪の親玉の顔には「極悪」と書かれているのだろうか。戦う銭形平次は「善」と書かれているのだろうか。「善」と書かれている方に不信感を抱いてしまう私も「悪」だろうか。

あさしょうりゅう(朝青龍)

日本の「いじめ」の構造を解き明かすサンプルになった大横綱。

変だよ、日本人。何故朝青龍をここまで追い詰めなきゃいけないの?全く理解出来ない。朝から晩まで「朝青龍がサッカーした」「朝青龍が日本の伝統を無視した」「朝青龍が謝罪しない」「朝青龍を何とかしろ」「朝青龍が病気になった」「朝青龍何処行った」...。

断っておきますが、私は朝青龍のファンではありません(誰が何と言おうと、相撲は寺尾です)。むしろ「嫌い」なタイプだと思う。ルールに従わなかった朝青龍が悪いとも思う。だけど、今回の騒動はおかしい。どう考えても日本人の過熱ぶりは異常だと思う。サッカーをしたことで「相撲界追放」なら分かる。「謹慎」とはどういう事?子供相手じゃあるまいし、そんな罰則で反省を促そうと考える事がそもそも相撲協会の浮世離れを露呈している。「今回(サッカー)の事だけじゃない、過去にもいろいろ」と言われてるけど、それなら何で今までそれを黙認していたの?朝青龍をモンゴルから連れてきた時に、朝青龍が関取になった時に、大関になった時に、横綱になった時に、ちゃんと「国技である大相撲」を理解させたの?誰か教育したの?「頑張れば強くなれるぞ」「横綱になったら英雄だぞ」「やりたい放題だぞ」って言ってたんじゃないの?自分たちの無能さを棚に上げて、ただ「アイツが悪い事した」「気に入らない」「ふざけんな」と、寄って集っていじめてるだけに見える。朝青龍の過去の映像として「相撲部屋で弟子を竹刀でひっぱたいてる図」を探してきて流すTV。「郷に入りては郷に従えと、モンゴルの人も言っている」と、少数意見を引っ張り出して書く新聞。何か圧力でもかかってるの?私には狂っているとしか思えない。

どうかモンゴルの人が日本を嫌いにならないようにと、祈るのみです。

あせ(汗)

私は夏(東京の夏)が嫌いである。そのレベルは「嫌悪」をはるかに超えて「憎悪」に近い。いや、それ以上かもしれない。気象庁発表の最高気温が25度を上回るあたりからストレスを感じ始める。何故そんなに夏が嫌いか、暑いのが嫌なのか、それは全てこの汗によるものである。私のかく汗の量は尋常ではない。たぶんこの文章を読んでくれている方が想像している量の5倍は汗を流していると思う。これは誇張ではない。実際に夏に生活している私の姿を見た人間は、その汗を見て「超常現象」を感じるはずだ。ポルターガイストより恐ろしい。7月、8月ともなれば、朝の通勤で会社に到着するまでに、顔を拭くだけでハンカチ(タオルハンカチね)が使い物にならなくなる。そして、それだけの量の汗を吸収してもはや飽和状態となっている下着を身に付けたまま暮らす一日。
想像してみて欲しい。地獄である。

あづまひでお(吾妻ひでお)

尊敬する人物の一人。漫画家。彼の作品はどれもみな味わい深い。 敢えて「ストーリー」というものを破壊し、そして何を再構築するのかと思えば何もしない。 それをそのまま作品としてしまう大胆さ。読み手の推測を超越した展開、破綻。そしてその作品を鑑賞に堪えうるものにするだけの画力。手塚治虫氏の作品と同様に、彼のキャラクターは紙の上で確かに動いている。

あとがき(後書き)

私の嫌いなもののひとつ。何か未練がましさを感じてしまう。もちろん「後書き」も含めて一つの作品として提示しているのであれば話は別だが、多くの場合そうではない。同様に、文庫本の小説の最後に付け加えられている「解説」も好きになれない。作品の評価は読み手自らが下せば良いのであって、他人の評価など読みたくもない。

あどばるーん(アドバルーン)

高層建築がまだ少なかった頃には、価値のある広告塔であったに違いない。知らない人のために説明すると、空気よりも軽いガスを注入した巨大な風船の下に、これまた巨大な垂れ幕を付けてそこにメッセージ(宣伝文)を書いて空に浮かべるものである。もちろん地上とはロープで接続されている。昭和30〜40年代、デパートの屋上で遊ぶ少年であった私の目にはたくさんのアドバルーンが映っていた。カラフルなアドバルーンたちがあちらこちらのビルから立ち上がり風に漂う姿は、経済成長の『のろし』の様なものであった。最近はあまり見ることがなくなったと思っていたら、先日自分の住むマンションの屋上から空に伸びていた。

あびせたおし(あびせ倒し)

私は『お相撲さん』が好きである。日本が世界に誇る地上最強の男たち。格闘技には様々なものがあり、それぞれが『最強』を謳っているが、私の中では『お相撲さん』がその頂点に立っている。あびせ倒しは決まり手のひとつであるが、それは『技』や『力』というものから人為的に生まれるというよりは、むしろ偶発的に発生することが多い。片方が全身の体重をかけて前進した時に、もう片方の押された側がなす術もなくひっくり返ってしまう。
「何するんだ、デブ!」「お前こそデブ!」

あぶらあげ(油揚げ)

油揚げが豆腐から作られているということを、私は最近まで知らなかった。

あへん(阿片)

試してみたい。ジャン・コクトーや開高健らの作品に描かれている阿片に強く惹かれる。「10分間が1年にも感じられるような深い眠り」というような表現をされると、たまらない。人間は常に意識に縛られている。意識は不純物を多く含み、絶えず説明を求めてくるので好きじゃない。 意味や意義ではなく、存在だけが確かである瞬間、つまり人間が無意識になる状態、反射的な反応でのみ存在できる瞬間が好きである。例えば射精の瞬間、例えば睡眠に入る瞬間である。

あら、そう(あら、そう)

中高年の女性が多用する台詞で、相手に致命的なダメージを与える力を持っている。
この台詞が使われる状況は大きく分けて二つある。

(状況1)相手の話を全く聞いていない場合
「この前電話したけどいなかったでしょ?」
「あら、そう」
「夜ももう一度電話したんだけど」
「あら、そう」
「せっかくケータイ持ってるんだからさ、バッグの中にしまわな...」
「何か食べる?」

(状況2)議論の最中に自分が不利になる、或いは自分に非がある事が判明した場合
「ちょっと!駅員さん!」(剣幕)
「は、はい、はい」(狼狽)
「今210円入れたけど、切符出ないわよっ!」
「す、すみません、ちょっとお待ち...」
「すぐ壊れるのよ、この機械」
「はい、ただ今調べますの...」
「早くしてよね」
「はい、...あっ」
「何よ」
「お客さん、5円玉入れたんじゃないですか?」(反撃)
「...あら、そう」(決着)

あるぷすのしょうじょはいじ(アルプスの少女ハイジ)

銀河英雄伝説やガンダムと共に、日本のアニメーションを代表する名作。アニメに限らず私がTVや映画で涙を流したのは過去この作品だけである。原作、作画、テンポ、声優、音楽、全てが見事に調和している。このアニメを観たことがあるかないかで、その後の人生が変わるのではないか、これを観ることを国民の義務としてはどうかとさえ思う。実は昨日もビデオを観た、けけけ。

あをによし(あをによし)

「飾る」という事の大切さを警告する言葉。

フジテレビのドラマ『鹿男あをによし』を毎回楽しみにしている。主演の玉木宏も好きな役者だし、ストーリーも面白いし、鹿が喋るし(笑)。だがここではドラマについては書かない。タイトルの「あをによし」という言葉を見て、ふと思った事をちょっと。

最近の流行歌の歌詞を読んでいると、妙な気分になるのである。
「あなた」「私」「君」「僕」「愛(しい)」「恋(しい)」「やさしさ」「思いやり」「強さ」「励ます」「支え」「信じる」「負けないで」「いつまでも」...
歌のテーマ、骨格となる言葉の数々が並ぶ。並んで、並んで、並んで、そして終わってしまう。伝えたい事は分かるのだけれど、同じような歌詞の曲ばかりで退屈してしまうのは私だけだろうか。「飾り」が少ないなぁ、と思うのである。メッセージは分かる。思いを込めて歌っている真面目さも伝わってくる。ただ、人に聴かせる歌ならば、もっとテクニックとしての「飾り」が欲しいと思うのである。作詞家と作曲家によって作られた歌が流れていた時代を懐かしいと感じるのは、私が古いタイプの人間だからなのであろうか。

あをによし(あおによし・青丹よし)
奈良にかかる枕詞。枕詞とは主として和歌に見られる修辞。修辞とは、青丹とは...。そんなことは理解していなくても、下に引用した歌を見てもらえれば、感じてもらえると思う。

【万葉集】
青丹よし寧楽(奈良)の都は咲く花の薫ふが如く今盛りなり

この歌から頭の「青丹よし」を取ってしまったら、つまらないものになってしまうでしょ?

あーちぇりー(アーチェリー)

高校に通っていた頃、仲の良かったアーチェリー部の友人に「アーチェリーって日本の弓と違って誰でも簡単に的に当たりそうでイイよねー♪」と言ったら、次の日から無視されるようになった。

いのり(祈り)

過酷な現実に打ちのめされた人間が、無駄と知りつつ行う儀式の事。砂漠に水を撒く行為に似ている。祈りは何処にも届かずに宙を彷徨い、神と呼ばれる残忍な存在によって定期的に消去される。

だが、私も祈る事はある。

先日、買い物に行った近所のショッピングセンターで「福引き」が行われていた。「お買い物3,000円以上で1回」あの「ガラガラ」を回せる。1等から4等までが当たり(お買い物券)で、その他にも特別賞があった。
会場はものすごい数の人である。ただでさえ人間の多い場所の嫌いな私が、苛々しながら行列に並んでいたのは言うまでもない。1分で50cmくらい、前進する。5分で2m50cmくらい、前進する。「ガラガラ」まではまだ10mはある。「はぁ...」と思いつつ、夕飯用に買った「ハスの挟み揚げ」をどう食べようか、何をつけて食べようかなどと妄想しながら耐えていた。
すると私の背中にゴツンと当たるものがある。最初は気にならなかったが、そのいやな感触は二度三度と繰り返された。「何なの?」と思い振り向くと、そこには年齢60歳くらいのオバサン。両手を前に出して抽選券を握りしめている。息遣いが荒い。興奮しているようだ。「はて?」と無視をする。1分が経過し、また50cmくらい前進する。するとまた背中にゴツンと、そのオバサンの握りこぶしが当たる...。つまり、私が50cmほど前進する度に、そのオバサンは75cmくらい前進するわけだ。早く「ガラガラ」したくてじっとしていられない様子である。私の苛立ちはさらに高まった。次に「ゴツン」と来た時に、私は体中の「念」を込めて、「殺すぞ」という視線で睨みつけた。だが無駄だった。オバサンの両目は「$$」の形になっている。何も見えてはいない。

ようやく私の番が来た。すっかり消耗した私は「ガラガラ」を回しながら、心から祈ったのである。

「どうかあのババアに当たりが出ませんように...」

うみのうえのぴあにすと(海の上のピアニスト)

船の中で生まれ、その一生を船と共に終えたピアニストの物語.....では説明にならないか。まあ、仕方がない。映画一編を数行の言葉で表すことなど出来ないし、作った人間に対して失礼なことだ。興味のある方は観て欲しい。観て損はしない秀作である。この映画に限らず、『音楽』がテーマになったストーリーにはいつも心を動かされる。私にとって音楽は、常に神秘の存在である。他の表現方法、例えば絵画、例えば写真、演劇、舞踏、文学など、あらゆる表現方法の中で、音楽が最も「受け取る人間のフィルターを通さずに」まっすぐ心に響くものだと思うからである。美しい音楽は人を幸せにするし、美しくない音楽がもたらす不快感を、人は抑えることが出来ない。

えぬえいちけー(NHK)

きちがいのこと。同意語にNTTがある。
受信料を確保するために、スクランブル化、ペイ・パー・ビュー化してはどうかという提案に対し、意味不明の言葉を発し日本中を凍りつかせた。以下、当時のNEWSサイトからの引用である。
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原田放送総局長と石村英二郎・放送総局副総局長が21日の会見で、改めて「公共放送」の堅持とBSなどのスクランブル導入への反論を述べた。原田氏は「(スクランブル化で)有料放送となれば、見てもらえる番組中心に放送することになる」「わけへだてなく多様なソフトを出すことができなくなる」とし、スクランブル制は「公共放送」としてのNHKの番組内容を変えるとの考えを強調した。
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この人たちは覚醒剤でも打っているのだろうか?それとも何か特殊な宗教に身を捧げているのだろうか?
「見てもらえる番組中心に放送すること」が大事なんでしょ?「少数の人に対しても大切な放送がある」とでも言いたいのだろうけれど、それは見てもらえる番組を放送して、その利益(評価されれば受信料も増える)で行うべきもの。それが出来ない自分たちの無能を棚に上げ、恐喝とも思えるこの声明。何様のつもりなの?根本的に腐ってる。国民からカネを巻き上げて、1日に数台しかクルマが通らない有料道路を作るのと同じ。そもそも民放であれ国営であれ、テレビやラジオは「公共」でしょ?自分たちは特別だという、精神病患者によく見られるこの自意識。こういうバカが胸を張ってるから、日本はいつまでたっても本当の民主国家になれない。あくまでも「国営」を主張したいのなら「受信料」などというオブラートに包んだ言葉ではなく、「国営放送受信税」と名前を変えて国会を通し、国民から搾取するがいい。その代わり、血税を払っている国民に対して不利益になる事を行った時は、死んで詫びろ。それだけの覚悟と責任感を...持てるわけねぇな。

おがたけん(緒形拳)

大好きな役者が逝ってしまった。緒形拳。すぐに脳裏に浮かぶのは、必殺仕掛人の藤枝梅安、そして個人的には映画『火宅の人』の桂一雄(檀一雄)である。前者は俳優としての彼の演技力を世に知らしめた作品として、後者は「堅物」で知られていた彼が、作家檀一雄の破天荒な生き方を見事に演じきった傑作として、心に残る。

今朝のテレビは一斉に彼の死去を報じ、つい先日行われた10月からの新番組「風のガーデン」制作発表会見の様子を流していた。そこで彼はドラマの内容に触れ、「否応なく人は老いて... 病んで...そして否応なく死が訪れる...」と語っていた。彼は自分の死期を悟っていただろうか。おそらく、悟っていたのではないか。だとすれば、重く、切実な言葉だったはずだ。そして、そのコメントを語る彼から、私は彼の最後のメッセージを受け取ったような気がした。

ゆっくりと、ゆっくりと「否応なく...人は...老いて...」と語り、次の言葉を選んでいる時である。彼はすっと、背筋を伸ばした。姿勢を正してから次の言葉「否応なく...病んで...」と続けたのである。「俯いてはいけない」と、思ったのではないか。「俯いてはいけないのだ」と伝えたかったのではないか。私にはそう見えた。そしてコメントの最後に「有り難うございました」と一言。

こちらこそ「有り難うございました」と伝えたい。男という生きものの激しさ、やさしさ、だらしなさ、そして潔さ、全てを鮮やかに見せてくれた俳優として、彼は私の中で輝き続けるだろう。