たり(TALI)

口の中でドロップを転がすようなオルガンの音。

だいあー すとれいつ(Dire Straits)

1977年に結成されたイギリスのロックバンド。1978年に発表された「Sultans of Swing(邦題:悲しきサルタン)」は日本でもヒットした。1985年にリリースされた「Brothers in Arms」は世界中で「天文学的売上」を記録...ってWEBに書いてあったけど、そうだっけか(笑)。いつも私の中心にいるバンドである。
例えば、例えばである。タバコを一本取り出して唇にはさみ、マッチで火をつけて深く息を吸い、吐き、マッチを金属の灰皿に捨てる。この一連の動作の「音」を想像して欲しい。「シュッ」とマッチを擦り、「シュポアー」と勢い良くマッチが燃える。「ム」とタバコを吸うと「メリメリ」とタバコに火が回る。「パ」と唇の脇を緩め空気を入れて、無音で空気を吸い込み「フー」っと吐く。消したマッチを「チロン」と灰皿に捨てる。
何が言いたいのかと(笑)。
彼らの音楽の魅力は、そういった空気感にあると思うのである。ヴォーカリストの吐息が、ギターのピッキングの音が、シンバルの重なる瞬間の音が、他のバンドよりも生々しく伝わってくる。奏でられる音ではなく、その音と音の間にある「空気」の響きが美しい。「詩は行間を読め」と言われているが、音楽もまた同様である。

ちゃれんじぷらいす(チャレンジプライス)

言葉に隠された意味があることを知り、愕然とする様を表わす感嘆詞。
近所のスーパーに並ぶ商品のいくつかに、「チャレンジプライス!」という文字が入った値札がある。普通、常識で判断すれば「通常価格より安い」と思いがちだが、騙されてはいけない。私が良く買う「ペプシNEX」を見てみよう。
「チャレンジプライス!118円」
確かにコンビニで買うよりはずっと安い。しかし、土日にまとめ買いをするイトーヨーカドーや埼玉県にファンを多く持つホームセンターOhkawaで同じものを見てみれば、98円。安い時には93円。その差20円。20円ですよ、奥さん。
はて、どうして118円を自慢出来るのか?中身が違うわけでもない、何か特典があるわけでもない、しかし自慢気に「チャレンジプライス!」である。
ある日、私にはその理由が分ったのである。チャレンジという言葉に嘘は無いということが、分ったのである。店が「チャレンジ」して値下げ販売をしているのではない。消費者に対し「この金額、あなたは出せるか!」と問いかけていたのである。

ちょいわるおやじ(ちょい悪オヤジ)

普段パッとしないオヤジでも、ちょっとオシャレにキメてみればほ〜ら...ご存知「笑っていいとも」(フジテレビ)の1コーナーであるが、本来の意味は違う。
健康診断の結果で「ちょっと数値に」問題があるオヤジのことをこう呼ぶのが正しい。
最新の流行は「コレステロール値」や「肝機能低下」、そして「糖」である。スポットライトに照らされたステージの中央でそれらは脂ぎった輝きを放っているが、その脇で「中性脂肪」も根強く支持されているし、「不整脈」「血尿」にも捨て難い味がある。
「いやぁ、参りましたな、再検査ですよ、はは」
「おや、あなたも」
「あなたも」
「あなたも」
「はは」
「はは」
少なくない不安と、立派なオヤジになれたという自負の狭間で、くすぐったいような気持ちになる男達。嗚呼。

てんのう(天皇)

私は天皇制を支持する。難しい議論、天皇制の歴史や日本国の在り方、民主主義についてなど、書くことはいくらでもあるし、それについての賛否もそれ以上にあるとは思うが、ここでは触れない。ただひとつ、天皇制を支持する最も単純な理由だけを述べたい。

外国人から「今あなたの国で一番偉い人、あなたの国を代表する人は誰ですか?」と問われた時に、答えを持ちたいと思うからである。総理大臣などの名前を口にしたくはないし、資本主義経済の成功者の名前も挙げたくない。日本を導いた偉人は過去にいくらでもいるが、「今」「誰」の答えにはならない。だから『天皇』なのである。権力者としてではなく、定義されている『象徴』そのものとして。

でかると(デカルト)

フランスの哲学者・数学者(1596-1650)。高校に通っていた私を、見事におかしな方向へと導いてくれた人。当時の私が『方法序説』を理解出来たのかどうかは疑問であるが、名文句「我思う故に我在り」に感化されたことは間違い無い。彼から始まり、約3年間『実存主義の旅』が続くことになるのだが、そんなことはどうでも良い。デカルトには申し訳ないが、今回この辞書に彼の名前を入れたのは、次に書くパロディを紹介したかったためである。なつかしい雑誌、『ビックリハウス』の読者投稿欄に載っていたと記憶している。

我思う故に我在りと我思うと俺もそう思う

でじかめについてのえとせとら(デジカメについてのエトセトラ)

先日、エントリー「RICOH GX100」の冒頭に、私のカメラ遍歴をチラリと書いた。それを補足する意味で、また少し。

何故レンズ交換式のデジタル一眼レフを買わないのか、と。

ポイントだけを先に挙げる。
1)高価である
2)重い
3)最終出力形式はWEBである
4)FZ30はネ申(笑)

まず「価格」について。
各社のデジタル一眼レフの価格は、基本的なレンズキットの入門機なら実売で7〜8万円台から。これを高いとは思わない。よく頑張っていると思う。だが、その「基本ズーム」の性能に納得出来ない場合、価格は跳ね上がる。
Nikonを見てみよう。新製品である入門機D40X。レンズキットに使用されている「標準ズーム:ED 18-55mmF3.5-5.6G II」がニコンの希望小売価格で2万円。値段を考えればたいへん「よく写る」レンズだとは思う。だが、納得は出来ない。そこで、レンズは別のものをと見てみよう。私が常用する広角〜標準のズームで、数多くの実写サンプルを見て納得出来たレンズは「ED 17-55mmF2.8G(IF)」のみ。価格は22万円。にじゅうにまんええん。
さらに、ボディの価格も安くなったとは言え、そこには「レンズ交換」のための様々なテクノロジー、つまり「どんなレンズを使っても、一定レベルの画質をキープする」ことや「レンズ交換時のダスト対策」等の代価が含まれている。交換レンズを多用しない私にとっては、どちらも無駄な機能なのである。

次に「重さ」。
デジタル一眼レフはどんどん小さく、軽くなっている。だが、もはや限界に近づいていると思う。大型のCCDを配置するためにはある程度の本体の大きさは必要だし、画質のために口径を大きく設計するレンズは軽くならない。私はかつてフィルムカメラ時代に、アルミのカメラバッグに一眼レフ2台、交換レンズ3〜4本を詰め込み、さらに三脚を背負って歩き回っていた。当時撮影していた「高山植物」や「山」の写真には、その機材が必要だったからである。そして、その結果は惨憺たるものであった。機材をアシスタントに持たせるプロならともかく、1人の人間がそれだけの荷物を抱えてどれだけの写真が撮れるのか。カメラは充実しても、それを使う人間が疲れてしまったのでは意味が無いのである。今は「スナップ」中心の撮影であるから、本体プラス標準、広角系のレンズだけを持って歩けば、撮影には困らない。そんなに大きな荷物にもならないと思う。しかし、オールインワンのコンパクトカメラほどの機動力は無い。「写したい」と思った瞬間がシャッターチャンスなのであって、レンズをもそもそと交換する気にはなれないのである。

「出力形式」も重要なファクターである。
デジタルカメラの「画質」を考えた時に、コンパクトカメラと一眼レフの一番の違いは何であろうか。それはCCDの大きさである。高級な一眼レフには、35mmフィルムの一コマ分に近い大きさのCCDが搭載されている。コンパクトカメラのCCDは...。下記URLを参照していただきたい。
http://takuki.com/gabasaku/CCD.htm
ご覧の通り、である。カメラメーカーは画素数ばかりをアピールするが、それだけで画質は決まらない。小さなCCDに「1,000万画素」を詰め込むよりも、余裕のあるCCDに「800万画素」の方が写りが良いのは物理的な必然である。画質の面でコンパクトカメラは一眼レフには勝てない。しかし、しかしである。その「画質」とは一体何を基準に判断するのか?そこで問題なのは、撮った写真をどうするのかという「出力」である。メモリカードに記録された数千×数千ピクセルの画像をどう「見る」のか。人によって答えは様々だと思う。超大型のモニタに、原寸に近いデジタル画像として映し出している人もいるかも知れない。A4どころか、A3以上の紙に出力して飾っている人もいるかも知れない。だが私はそういう出力をしない。WEB掲載用に640ピクセル程度にまでリサイズした小さな画像を楽しんでいる。この大きさの画像で、果たしてどこまでCCDの差が出るであろうか。そう考えると、私にとってデジタル一眼レフのスペックは、無用の長物とも思えるのである。

それでも、一眼レフが優れている事に変りは無い。小さなWEB用の写真でも「極限まできれいに」撮りたいと思う人も多いはずである。では、その「きれい」とは何か。「シャープさ」なのか「滑らかさ」なのか、「豊かな色調」なのか「あるがまま」なのか...、これもまた主観の問題である。出始めたばかりの頃のデジタルカメラ(30万画素級)ならともかく、今売られているデジタルカメラはどれもみな「きれい」に写る。それぞれの画像の違いはもはや「個性」と呼べるレベルにあると思う。以前フィルムカメラを使っている時に、Nikonの一眼レフよりもコニカ・ビッグミニで撮った写真の方が「きれい」に見えた事もある。それと同じような事が、デジタルの世界でも言えるようになったのではないか。私が今使っているLUMIX FZ30、これは恐ろしい程「きれいに」撮れるカメラだと、私は思う。私がWEB用に写真を撮る上で、このカメラ以上にコストパフォーマンスに優れた機種は、今のところ見当たらない。見当たらないので、買う必要が無いのである。家電メーカーのカメラなどと侮って欲しくない。一眼レフにあって、FZ30に無いもの...それは光学式ファインダーだけである。

でじたるかめら-その1(デジタルカメラ-その1)

地球暦2001年、帝国暦3年。カイザー・シロクマンは、デジタルカメラOLYMPUS/E-10を手に入れるために、それまで愛用していたフィルムカメラを全て売り払うという暴挙に出た。
彼は、総重量にして5kgを超えるNikon艦隊を始め、唯一の中判戦艦である「Mamiya 6」、機動力では敵なしと恐れられた駆逐艦「Konika ヘキサー」、さらにはストロボ、レリーズといった小部隊までをも引き連れ、小惑星マップカメラに奇襲をかけたのである。この突然の攻撃に対し、ただでさえ日曜日のおやぢ族から連続攻撃を受けていたマップカメラは、「ちょっとお時間がかかります」と降伏せざるを得なかった。「フィルムをスキャンしてモニタで見るのは無理があるなぁ」と妻に呟いてから僅か3日目のことである。この戦いで運良く生き残った駆逐艦「ヘキサー」と、代償として手に入れた20数万円の現金を手に、彼は「最も発達した経済」の象徴である惑星ヨドバシカメラに強行着陸。間髪を入れずに目的であったOLYMPUS/E-10を奪取する。シロクマンは言った.....「これでカメラバッグが軽くなるね」。
銀河の歴史がまた一頁。

でじたるかめら-その2(デジタルカメラ-その2)

本屋に並ぶデジカメ雑誌をパラパラと立ち読みしていて、何だか妙な気持ちになってしまった。「初心者のためのデジカメ選び」の類、「きれいに写すには」の類、その辺りまでは素直に読めたのだが、「きれいに仕上げる」のあたりから気分は複雑になってくる。そこには『パソコンでの加工』のありとあらゆる技法が書かれている。「こんな失敗をした時は」から始まり、「さらに美しく見せるには」と続く.....
写真は「ありのまま」に写るから面白いのではないのか。その機能は時に撮影者の意図を裏切るけれど、それもまた写真の魅力ではないのか。「自分の目で見ているもの」と「自分で見た(と思っている)もの」の違い、写真はそれを教えてくれる。人間は狡く出来ているから、今見ている被写体を必ず何処かで自分の好みに修正してしまう。出来上がった写真を見たときに「こんなはずではない、もっと.....」と思うのは、(露出ミスやピンぼけは別として)自分の記憶を無意識に修正してしまっているからだ。逆に、何気なく撮ったスナップの1コマが思いがけず印象深い作品になってしまうこともある。プロと呼ばれる人たちは、その辺りをしっかりと計算に入れてシャッターを切る。ファインダー越しに自分が今見ている被写体が、写真になった時にどう変わるかを予測しているのである。写真が自己表現である以上、出来る限り自分が写したかった風景を自分の好みに仕上げたいとは思う。だが、上に書いたパソコン上での『加工』はどうだろう。それはもはや写真とは別の、コンピュータ・グラフィクスなのではなかろうか。そうすることを否定はしないが、それを「写真」であるとは言って欲しくない。

でんちゅう(電柱)

♪僕は3丁目の電柱です。雨の日風の日街角に立ち、通りを見てます眺めています♪.....いい詩だと思う。東京電力のCMソングであったと記憶している。最近は送電線の地下ケーブル化が進み、その数は気付かぬうちにどんどん減ってきている。その昔、木で出来ている電柱に裸電球が街灯として取り付けられていた頃、夜はまだ暗いものであった。