かるちょびっと(カルチョビット)

大きな期待をしていなかった物事が、実はたいへん奥深く楽しいものであった場合に使う言葉。「あんまり評判にならなかったけど、あの映画はカルチョビットだったねぇ」などと使われる。
語源は任天堂ゲームボーイアドバンス用のサッカーシミュレーションゲーム。パッケージを見て、その「かわいらしさ」「なつかしさ」に心が動き、3,800円という価格に財布のヒモが緩んだ結果、「ま、ちょっと遊べればイイかな」という気持ちで購入。
ところがこのゲーム、深い。

1)サッカーはじれったい
ゲームの作者である薗部博之氏も言っているように、サッカーとはじれったいスポーツである。そのじれったさが、ゴールの瞬間のエクスタシーを生む。このゲームはそれを忠実に再現している。ゲーム中は選手交代やフォーメーションの変更以外、一切選手を操作出来ないので、ただ見守るだけ。そして選手一人一人の成長具合と、その適性を判断する。試合を見ないで先に進むこと(スキップ)も出来るが、選手を成長させるためのアイテム(課題)をもらえなくなってしまうので、どんなにつまらない負け試合でもひたすら「見る」しかない。
2)だが確実に進化する
オフの日やベンチ入りしていない選手には「特訓」を行う。これがまたじれったい。簡単にパラメータは上がってくれないし、無理をすれば選手は疲労し、ケガをしやすくなってしまう。少しずつ少しずつ、先発組と控え組を上手く使い分けて特訓を続ける。半年も続ければ「S-A-B-C-D-E」のランクが一つ二つ上がっていくが、これも「最初はスイスイ、徐々に頭打ち」という具合でじれったい。だが、選手は確実に進化する。シーズン開始直後には一本もシュートを決められなかったFWが、数年後にはダイビングヘッドを決めているではないか。
3)数値に現れてこない「何か」
ようやく選手が平均的レベル(オールC)を超えるようになってくると、このゲームの奥深さを思い知らされることになる。FWだから「キック力」「スピード」と考えて選手のパラメータを上げてみるものの、思ったように活躍してくれない。逆に「ゴール前は任せた」と育てたはずのDFが、やたらと前線に上がりプレイをするようになる。もちろん「スピード」Aランクの選手は、Bランクの選手よりも早く走ることが出来るのだが、このゲームの選手の動きはそれだけでは判断出来ない。数値には出てこない「選手の性格」が育っているのである。無理な角度からでもすぐロングシュートを放つ選手、パスを出さずにドリブル突破を狙いたがる選手、ポジションに忠実な選手、そうでない選手...むぅ。

DSを含め、GBAソフトをプレイ出来るハードを持っているのならオススメの一本である。グラフィックが平面でも、キャラが二頭身でも、その小さな画面の中には、成長し、活躍し、しかし思い通りには動いてくれないリアルな選手達と、どうしたら勝てるかを真剣に悩んでいる監督(プレーヤー)がいる(笑)。

だいあー すとれいつ(Dire Straits)

1977年に結成されたイギリスのロックバンド。1978年に発表された「Sultans of Swing(邦題:悲しきサルタン)」は日本でもヒットした。1985年にリリースされた「Brothers in Arms」は世界中で「天文学的売上」を記録...ってWEBに書いてあったけど、そうだっけか(笑)。いつも私の中心にいるバンドである。
例えば、例えばである。タバコを一本取り出して唇にはさみ、マッチで火をつけて深く息を吸い、吐き、マッチを金属の灰皿に捨てる。この一連の動作の「音」を想像して欲しい。「シュッ」とマッチを擦り、「シュポアー」と勢い良くマッチが燃える。「ム」とタバコを吸うと「メリメリ」とタバコに火が回る。「パ」と唇の脇を緩め空気を入れて、無音で空気を吸い込み「フー」っと吐く。消したマッチを「チロン」と灰皿に捨てる。
何が言いたいのかと(笑)。
彼らの音楽の魅力は、そういった空気感にあると思うのである。ヴォーカリストの吐息が、ギターのピッキングの音が、シンバルの重なる瞬間の音が、他のバンドよりも生々しく伝わってくる。奏でられる音ではなく、その音と音の間にある「空気」の響きが美しい。「詩は行間を読め」と言われているが、音楽もまた同様である。

あら、そう(あら、そう)

中高年の女性が多用する台詞で、相手に致命的なダメージを与える力を持っている。
この台詞が使われる状況は大きく分けて二つある。

(状況1)相手の話を全く聞いていない場合
「この前電話したけどいなかったでしょ?」
「あら、そう」
「夜ももう一度電話したんだけど」
「あら、そう」
「せっかくケータイ持ってるんだからさ、バッグの中にしまわな...」
「何か食べる?」

(状況2)議論の最中に自分が不利になる、或いは自分に非がある事が判明した場合
「ちょっと!駅員さん!」(剣幕)
「は、はい、はい」(狼狽)
「今210円入れたけど、切符出ないわよっ!」
「す、すみません、ちょっとお待ち...」
「すぐ壊れるのよ、この機械」
「はい、ただ今調べますの...」
「早くしてよね」
「はい、...あっ」
「何よ」
「お客さん、5円玉入れたんじゃないですか?」(反撃)
「...あら、そう」(決着)

んまい(んまい)

「うまい(美味しい)」の最上級を表わす言葉。
語源はフランクフルトのゼーゼマン氏が、ハイジにもらった水を飲んだ時に言う台詞。
「んまいねぇ...こんなにんまい水を飲んだのは初めてだ、ハハハハハ」

すいか(スイカ)

所ジョージの名曲。私の頭の中ではかなり頻繁に流れている。
「スイカ見事に真っ二つ ちゃぶ台の上で真っ二つ」
歌詞はこれをひたすらリピートするだけだったと思う。だから全文引用になってしまうので本当は著作権に触れるけど、許してね。この歌詞に「詩」を感じると言ったら変だろうか?頭の中を静かでクリアな状態にして、イメージして欲しい。
(叙情編)
夏の午後である。陽射しが強くかなり暑い日だけれど、縁側からはやさしい風も吹いて来て、時折風鈴を揺らしてくれる。遠くで蝉が鳴いている。そろそろ子供たちが帰ってくる時間。汗をかいて真っ赤になった顔が浮かぶ。西瓜を食べさせてあげよう。畳の上にちゃぶ台、ちゃぶ台の上に西瓜。そしてその西瓜に包丁を入れると、弾けるような音と共に真っ二つ。切り口は輝いているはずだ。
(シュール編)
自分がどうして今ここにいるのかは分らない。長い長い廊下の隅に立っている。床も壁も眩しいほど真っ白だ。出口はどこだろう。ドアは見当たらない。自分はどこからここに入ってきたのだろう。仕方なく前に進んでみる。真っすぐ真っすぐ進んでみる。ようやく突き当たりの壁が見えてくる。しかしドアは付いていない。壁の前に立ち途方に暮れる。ひどく自分が疲弊していることに気付く。これは夢なのかもしれない。夢ならば、そう、夢ならばもう一度眠って目を覚ませばきっといつものベッドの中に戻れるに違いない。そうだ、そうしよう。床に座るために振り返ると、足下にちゃぶ台が置かれている。真っ二つになったスイカが乗せられている。

やっほろほいほいほーい(ヤッホロホイホイホーイ)

フジTV「ポンキッキーズ」で流れた名曲「チビミミナガバンディクート」の中の掛け声。ストレスを感じた時に口ずさむと「何とかなりそうな気がしてくる」という効果を持つ。歩き疲れた時に「となりのトトロ」で流れる「さんぽ」(♪歩こう、歩こ〜う)が効果的なのと同じ。
「せ〜のでいくよ!」
はい、いきます。

そにーにいさん(ソニー兄さん)

映画「Godfather」でジェームズ・カーンが演じたコルレオーネ家の長男。すぐ怒る。本当はやさしい人なのに、あまりにも感情的な性格のため他人に誤解されるタイプの人をこう呼ぶ。なだめる時は「ハイ、サニー、イーズィー、イーズィー」と声をかけよう。三部作のこの映画の中で、私が最も親近感を持つキャラクターである。

そにー(SONY)

モノが壊れた時に人々が発する「It's a SONY!」という捨て台詞の語源となったメーカー。
今や知らない人はいない「ソニータイマー」。その精度は驚くべきもので、保証期間が過ぎてしばらくすると間違いなく発動する。しかも、最近の製品にはオリジナリティのかけらも無い。Appleコンピュータ、CASIO、Panasonicが示す「新しさ」が無い。遠い昔、彼らは開拓精神に満ちていた。彼らの造り出すものは全て、品質・デザイン・アイデア共に世界一であった。私が少年の頃親に買ってもらったラジオは、他のどんなラジオより音が良く、小さく、美しく、そして長持ちした。1979年のウォークマン登場によって、世界中は音楽でいっぱいになった。一体彼らに何が起こったのか?企業を人に例えるなら、病気なのか?太り過ぎてしまったということか?それとも計算ずくの妥協か?だとすれば、悲しい事である。多くの人が彼らに期待するのは、安い製品の安定供給ではない。

なかたひでとし(中田英寿)

2006年ワールドカップの直前に彼は言った。「日本代表チームは強くなってるんだろうか?一人一人のテクニックやパワーは確かに上達している。でも、チームとして強くなっているんだろうか?」
彼の言葉が正しかった事は、予選敗退という結果が見事に証明した。
彼がいなければワールドカップに出場すら出来なかった事は明白である。彼は今までの日本のサッカー選手の誰よりも才能に恵まれ、努力をし、日本サッカーのために尽力した選手である。しかし...。
サッカーは意思伝達のスポーツである。試合中に数限りなく放出される「意思」というボールを、目に見えぬベクトルを信じて仲間とやり取りをするスポーツである。彼のベクトルは仲間に伝わっていただろうか?私の目にはそのコミュニケーションが見えなかった。
彼はマスコミが嫌いである。それは誰の目にも明らかで、彼へのインタービューの放映はいつも妙な緊張感を伴っている。その緊張感こそが、彼と他の選手との間に溝を作ってしまうのではないか?
彼を弁護する人は言うだろう。「マスコミは彼の本当の姿を理解していない」「彼が嫌いなのは、無知で遠慮の無いインタビュアー」「彼ほど真面目に日本サッカーの事を考えてる人はいない」「彼とコミュニケーションが取れないのは、その人のレベルが彼と違い過ぎるから」
確かにそうなのかもしれない。同じ事を繰り返し質問する無能なインタビュアーに、「あなた、僕の話聞いてます?」と苛立つ彼は間違っていない。最も得点の可能性の高いポイントに出した彼の精度の高いパスを、受け止められるだけの選手がいなかったということなのかもしれない。しかし...。
サッカーは意思伝達のスポーツである。自分と違う人間、自分の事を理解出来そうにない人間に、自分をどう伝えるかが重要なのである。彼自身がこの事を一番良く分っていたのではないだろうか。予選敗退が決定した最後の試合の後、他の選手がスタンドに手を振っている時に彼はフィールドに仰向けになっていた。

しゅっぱんしゃ(出版社)

偉そうな人が多い。偉いのではなく偉そうな人というところが問題。仕事柄「医学系出版社」との付き合いが多く、手紙やメール、電話でのやり取りが多いのだが、常に「私たちは医学の進歩に貢献している」という妙な自負を持っていることが感じられる。直接会ってみると案の定、背骨が折れるのではないかと思う程踏ん反り返っている。知り合いに「他の業界の出版社はどう?」と訊いてみると、「そうそう、同じ」と。版権を保有している事と作品を生み出している事の区別がつかなくなり、自らが時代の番人であるかの如く錯覚している。単なる商業主義を「文化」というオブラートに包み、水戸黄門の印籠のように権力を振りかざす。
あ・の・ね、作品を生み出してるのは執筆者であって、君たちじゃないでしょ?君たちはただ自分たちの利益のために動いている寄生虫でしょ?寄生虫は寄生虫としての自負を持って生きて下さい。